|
| 1899年 7月21日 | 0歳 (明治32年) |
| アメリカ合州国イリノイ州シカゴ市の現在は国際空港の近くになる住宅地オ−ク・パ−ク(当時はシカゴ市とは別個の行政都市)で、医師であった父クラレンス・エドモンド・ヘミングウェイと母グレイス・ホ−ル・ヘミングウェイの第二子としてして誕生。ア−ネスト・ミラ−・ヘミングウェイと命名される。姉一人、弟一人、妹三人の六人兄弟の長男として過ごす。父クラレンスは禁酒禁煙で勤勉という保守的なプロテスタントであったが一方では、魚釣りや狩猟を好んだ。母グレイスは音楽と絵画制作にいそしみ、声楽家として生徒に教えるほどだった。つまりやや富裕な典型的中産階級の家庭環境が用意されていたということになる。 | |
| 1901年 | 2歳 (明治34年) |
| シカゴからミシガン湖沿いに北上したミシガン州北端部にあるウォル−ン湖畔に別荘を購入し、毎夏をここで過ごすようになる。父はここで子供達に水泳、釣り、乗馬、猟の手ほどきをする。 | |
| 1902年 | 3歳 (明治35年) |
| 初めて父親と二人だけの釣り旅行に行ったとされる。 | |
| 1906年 | 7歳 (明治39年) |
| 母グレイスの実家は19世紀後半にシカゴを拠点に国際的な取り引きで成功したビジネスマン一家。その創業者の祖父の死に伴う遺産でヘミングウェイ家はオ−ク・パ−クに家を新築。 | |
| 1909年 | 10歳 (明治42年) |
| 10歳の誕生日に父親より初めて本物の猟銃をプレゼントされ、ウォル−ン湖の別荘にて射撃や狩猟の手ほどきを受け、夢中になる。またかつてはこの地を占有していたオジブワ先住民子孫の娘と初体験を済ませたのもこの地だったとされる。 | |
| 1913年 | 14歳 (大正2年) |
| 母親の指導でほぼ毎日続けていたチェロ練習に飽きてきた一方、 ボクシングに興味を持ち、シカゴのボクシング・クラブに入門。9月にはオ−ク・パ−ク高校に進学し、ボクシングや狩猟は勿論のこと、アメリカン・フットボ−ルにも熱中する。スポ−ツを通して肉体にかかる負荷に耐え撥ね退ける、不屈の精神力の養成に精を出す。また将来は医者になることを考え、父親の診察光景を眺めたりした。しかしこの頃から文芸世界にも興味を持ち始め、シェークスピアやディケンスなどの古典を読み始める。 | |
| 1916年 | 17歳 (大正5年) |
| 初めて短編小説らしきものを書き、学内季刊文芸雑誌「タビュラ」に3編を発表した。また学内週刊新聞の編集スタッフとなり、ほぼ毎週のように寄稿した。しかし文学やジャーナリズムに傾倒することを不道徳なことと考える両親との関係は悪くなる一方で、短期の家出を繰り返す。 | |
| 1917年 | 18歳 (大正6年) |
| この年4月にアメリカ合州国は第一次世界大戦に参戦した。5月の卒業式直前に父親の強い反対を押しきってまでヨ−ロッパ派遣の兵役に志願するが身体検査でボクシングによる左目の障害が判明し不合格となる。しかしオ−ク・パ−クの実家からの脱出意欲はますます高まり、秋にはミズリ−州カンサス・シティ−に本社のある「カンサス・シティ−・スタ−」新聞の記者としての職を得て転居し、独り暮らしを始める。約半年の体験だったが、ここでプロとしての物書きの心構えや表現したいものを伝える「文体」意識を持つようになったとされている。 | |
| 1918年 | 19歳 (大正7年) |
| 4月に「カンサス・シティ−・スタ−」社を辞職し、イタリア軍付赤十字要員募集に応募。これには合格し、5月末には海路ニュ−ヨ−クを出発して6月にはミラノに到着し、従軍を果たす。7月8日夜、北イタリア前線フォッサルタ村での戦闘での負傷者輸送中に敵の迫撃砲攻撃か機銃掃射で被弾し、脚部に227もの破片を受ける負傷で翌日朝からミラノ陸軍病院に3か月入院。ここで看護婦として働いていたアグネス・フォン・クロ−スキ−と恋愛関係に陥る。この間の体験が後の小説『武器よさらば』の背景となる。退院後は中尉待遇となり10月には再びイタリア軍と戦線に出るが、11月には休戦となり、帰国を考える。ちなみにこの参戦時の功績により1921年にはイタリア政府より勲章が授けられた。 | |
| 1919年 | 20歳 (大正8年) |
| 1月にオ−ク・パ−クに戻るが両親と和解することはなかった。秋にはミシガン州北部のかつて毎夏を過ごしたウォル−ン湖近くにあるペトスキ−に移り、ここで短編習作に取り組むが、戦場で負傷した時のショック後遺症で暗闇の中では眠れない日々に悩まされ、翌年1月までに脱出を考えるようになった。 | |
| 1920年 | 21歳 (大正9年) |
| 1月にカナダのオンタリオ州トロント市に移り、「トロント・スタ−・ウィ−クリ−」誌や「トロント・デイリ−・スタ−」新聞の特集読物担当記者として5月まで滞在。遅い雪解けと共に再びオ−ク・パ−クに戻ったが両親との関係は凍結したままだった。秋にはシカゴ市に出て「シカゴ・トリビュ−ン」新聞の事件記者を体験した後、「アメリカ消費組合」機関誌の編集スタッフとなる。この冬に作家シャ−ウッド・アンダ−ソンと知り合い、文学のシカゴ・ルネッサンス・グル−プとのつき合いも始まる。また8歳年上の女性ピアニスト、エリザベス・ハドリ−・リチャ−ドソンとの恋愛関係が始まり、創作意欲も高まる。 | |
| 1921年 | 22歳 (大正10年) |
| 春に「アメリカ消費組合」を退社後、再び「トロント・スタ−・ウィ−クリ−」誌への寄稿を始め、署名入り記事が書けるようになった。9月3日にはエリザベスと結婚しトロント市に新居を構え、新婚生活を送った。11月にイタリア政府より叙勲を受けたことをきっかけに12月には「トロント・デイリ−・スタ−」紙と「トロント・スタ−・ウィ−クリ−」誌の両特派員としてスペイン経由で渡欧、夫婦でパリのカルディナル・ルモワンヌ74番地の古い5階建てアパ−トの一室で生活するようになる。 | |
| 1922年 | 23歳 (大正11年) |
| 3月にかつてシカゴで知り合ったシャ−ウッド・アンダ−ソンの紹介状を持ってアメリカ人女性作家ガ−トル−ド・スタインを訪れ、詩人・批評家エズラ・ル−ミス・パウンドとも知り合い、この二人とは以後、随時詩や短編の批評を仰ぎ、文体や表現技法を学ぶ仲となった。仕事としてはジェノア経済会議(3月)の様子を報道。妻エリザベスと北イタリアを旅行する。5月にはニュ−・オリンズ発行の「ダブル・ディ−ラ」誌5月号に寓話的短編『神々の身振り』を発表、続く同誌6月号には詩『終焉に』も掲載された。9月にはギリシャ軍に従軍し、ギリシャ・トルコ戦争の報道に従事した後、11月にはパリに帰ってロ−ザンヌ講和会議の模様を報道する。クリスマス直前に妻エリザベスとロ−ザンヌに向かう途中のリヨン駅で書き溜めた詩30、短編18、長編小説1の入ったス−ツケ−スを盗まれた。 | |
| 1923年 | 24歳 (大正12年) |
| シカゴの詩誌「ポエトリ−」1月号に『さすらい』と題した詩6編が掲載された。また4月には「リトル・レビュ−」誌にも超短編6作と詩1編が掲載される。そして7月の誕生日にはついにパリで『三つの短編と十の詩』というタイトルの本を初めて出版できた。初版300部という小規模なものだったが、まだ若き人生のひとつの節目にはなった。9月には妻エリザベスとトロントに戻り、10月に長男ジャック(女優マ−ゴ・ヘミングウェイの父)が誕生。今度は作家としてパリに留る決意をし、12月に「トロント・デイリ−・スタ−」社を退職。 | |
| 1924年 | 25歳 (大正13年) |
| 1月パリに戻り、いわゆる「パリ修業時代」が始まる。定職としてはフォ−ド・マドックス・フォ−ドが創刊した「トランスアトランティック・レビュ−」誌の編集スタッフという仕事に就いた。3月頃とされているが、ウィリアム・バ−ド社主のスリ−マウンティンズという地下室で手刷りの限定版をてがける出版社から小品18編を集めたパリ版『我らの時代に』を出版。初版170部32頁という小冊子だったが、アメリカの批評家で小説家でもあったエドムンド・ウィルソンが注目し、書評を「ダイアナ」誌10月号に発表した。4月には短編『ワ−ク・イン・プログレス』(後に『インディアン・キャンプ』と改題発表)が「トランスアトランティック・レビュ−」誌に掲載された。夏にはスペインを旅行し、パンプロ−ナで闘牛に魅せられる。この体験が後の作品『日はまた昇る』に反映。11月には「クベ−ルシュニット」誌にも詩4編が掲載され、12月には『医師と医師の妻』も発表した。修業時代としては幸運なスタ−トをきったということである。 | |
| 1925年 | 26歳 (大正14年) |
| 2月に詩『時代の要求』を「ク−ベルシュニット」誌に発表。5月には短編『二つの心を持つ大きな川』を「ジス・クオ−タ」創刊号に発表する。この頃、パリに来たフランシス・スコット・キ−・フィッツジェラルドと知り合い、その輪はマルコム・カウリ−、ジェ−ムス・ジョイス、ドス・パソス等とのつきあいに広がっていった。そして7月前にドイツ語に訳された短編『闘牛』(後の『敗れざるもの』の元)をやはり「ク−ベルシュニット」誌に発表した後スペインに渡り、7月の誕生日にバレンシアで小説『日はまた昇る』執筆に着手し、パリに戻った9月には第1稿を仕上げる。10月にはアメリカ版『我らの時代に』1335部が出版された。この作品は簡潔な文体で作者自身の投影である少年のトラウマ体験を描き、ヘミングウェイ文学の原点とされ、フィリップ・トインビ−やD・H・ロ−レンスなどの賞賛を浴びた。11月には中編『春の奔流』執筆に取りかかる。 | |
| 1926年 | 27歳 (大正15年/昭和元年) |
| 4月に『日はまた昇る』を脱稿。5月には後に書き始めた『春の奔流』1250部が先に出版された。10月に『日はまた昇る』が出版されるや年内に約26000部を売り切るベストセラ−となり、ヘミングウェイは一躍有名作家となる。この作品は第一次世界大戦の戦争体験から旧世代の価値観や世界の在り方に絶望し、生きる意味を見い出せずに、アルコ−ルやセックスに走る刹那的生活を送る「失われた世代」(『駄目な若者たち』という含意)の生態を描き、一躍同世代を代表する作家となった。 | |
| 1927年 | 28歳 (昭和2年) |
| 1月にかねてから別居中だった妻エリザベスと正式離婚した。春に「エグザイルス」誌創刊号で詩『新ト−マス派の詩』を発表。3月には短編『殺し屋たち』を「スクリブナ−ズ・マガジン」に発表。続いて『もうひとつの国で』も「スクリブナ−ズ・マガジン」に掲載された。この夏、雑誌「ヴォ−グ」のパリ駐在記者で服飾評論家のポ−リン・ファイファ−と再婚し、熱心なカトリック信者であった彼女のためにカトリックにも改宗した。離婚、再婚、そして改宗はヘミングウェイ家の伝統ではかつてなかったことであり両親は驚いた。10月には2作目の短編集『女のいない男たち』が出版され、約8000部を売った。そして年末には『日はまた昇る』の英国バ−ジョンが『フィエスタ』のタイトルで出版される。 | |
| 1928年 | 29歳 (昭和3年) |
| 3月からパリで小説『武器よさらば』を起稿するが、ここでパリでの修業時代に終止符を打ち、フロリダ州キ−ウエストに新居を構える。この家はプ−ル付き白亜の二階建て建築で1940年まで住み、現在記念館として一般公開されている。また初めてキュ−バを訪れ、いたく魅せられた。6月に次男パトリックが誕生するが妻ポ−リンは帝王切開を伴う難産だった。8月末にはワイオミング州ビッグ・ホ−ンで『武器よさらば』を完成させる。12月6日に父親クラレンスが糖尿病と借金を苦にピストル自殺する。自殺に使った銃はクラレンスの父(即ちヘミングウェイの祖父)の遺品だったもので、この行為は清教徒グル−プの一員として1634年に移民してきた先祖への冒涜と考え自己中心的だとも語る一方、父の行為もまた両親に反抗してきた自分自身の鏡像と重なり宿命的なものを感じた。また父をそこまで追い込み、自殺に使った銃を送ってきた母親グレ−スを憎むようになる。しかし結局ヘミングウェイ自身も父の死をなぞる形で死んでいった。 | |
| 1929年 | 30歳 (昭和4年) |
| 「スクリブナ−ズ・マガジン」誌5月号から10月号に『武器よさらば』を連載。9月に単行本として出版されるや1月で31000部を売り切り、4か月で8万部を越えた。アメリカ人将校とイギリス人看護婦との出会いから悲劇に終わる恋愛模様を乾いた文体で描き、作家としての地位を確立した。またこの年は最後の詩作『バレンタイン』を「リトル・レビュ−」誌に発表した後、またスペイン旅行に出る。世界大恐慌が始まる年だった。 | |
| 1930年 | 31歳 (昭和5年) |
| 11月にモンタナ州に狩猟に出かけた際、自動車事故で入院。 | |
| 1931年 | 32歳 (昭和6年) |
| 夏前にスペインを旅行。8月はパリに滞在する。9月にはまた三男グレゴリ−(1976年に『パパ』という父ア−ネストの回想録を出版)が誕生。 | |
| 1932年 | 33歳 (昭和7年) |
| 1月より闘牛論とも闘牛の入門書とも呼ばれる研究作『午後の死』を脱稿。9月に初版約1万部が発行された。 | |
| 1933年 | 34歳 (昭和8年) |
| 9月よりマドリッドに滞在。10月に第三作目の短編集『勝者には何もやるな』約2万部を出版。11月から夫人同伴で東アフリカ狩猟旅行に出かける。またハリウッドで『武器よさらば』(邦題「戦場よさらば」フランク・ボ−ゼ−ジ監督、ゲイリ−・ク−パ、ヘレン・ヘイス主演)が映画化された。 | |
| 1934年 | 35歳 (昭和9年) |
| 1月、まだ日程途中のアフリカ旅行中にアメ−バ性赤痢にかかるが結局3月までアフリカ旅行を敢行。4月にニュ−ヨ−クに戻る。小説『持つと持たぬと』の第一部『ある渡航』を雑誌「コスモポリタン」に発表。アフリカでの狩猟体験から一転して今度は海に挑戦するためトロ−リング用パワ−ボ−ト「ピラ−号」を建造。さっそくキ−ウエストからバハマ諸島に出かけ、大物釣りの醍醐味と勝利の感覚を味わう。210キログラムを越えるマカジキをつったことが自慢でもあった。そしていわゆる海の三部作の構想が始まる。 | |
| 1935年 | 36歳 (昭和10年) |
| 雑誌「スクリブナ−ズ・マガジン」5月号から10月号にかけてアフリカの狩猟旅行記『アフリカの高原』を連載執筆。10月には単行本『アフリカの緑の丘』にまとめて1万部を出版。 | |
| 1936年 | 37歳 (昭和11年) |
| 3月に『持つと持たぬと』第二部『商人の帰還』を「エスクワィア」誌に発表。7月にスペイン市民戦争が勃発すると早速共和国政府軍支援の資金調達に奔走する。アフリカを題材とした短編『キリマンジャロの雪』を「エスクワィア」誌8月号に発表。また「コスモポリタン」誌9月号にも女性への敵意を明らかにした短編『フランシス・マッコ−マ−の短くも幸福な生涯』も発表。 | |
| 1937年 | 38歳 (昭和12年) |
| 1月より「アメリカ・スペイン民主主義友好協会」を主宰。2月末に「北米新聞連合」協会(NANA)の特派員として内乱中のスペインに渡る。3月には共和国政府軍と合流し、バルセロナ、バレンシアなどを転戦。ここでJ・イフェンスらと共にスペイン市民戦争の記録映画『スペインの大地』に製作協力する。またフランス人アンドレ・マルロ−やロシア作家イリヤ・エレンブルグ等とは共同取材活動を通じて親交も生まれ、やがて雑誌「コリア−ズ」の特派員としてスペインに滞在していた女性作家マ−サ・ゲルホ−ンとは恋愛関係に陥る。5月に帰国するや、6月開催の第二回全米作家会議で『作家と戦争』について演説。7月にはF・D・ロ−ズベルト大統領の招待晩餐会で記録映画『スペインの大地』を公開し、解説した。8月には再びNANAの特派員としてスペインに渡り、12月には混乱のマドリッドで三幕劇『第五列』の執筆にも集中する。この間、10月には貧富の差や時代の流れを変えることのできない個人の無力感とそれでも希望を失わない視点でかかれた社会小説『持つと持たぬと』が出版されすぐに1万部を売り切るベストセラ−となったり、マ−サ・ゲルホ−ンとの再会を果たすなどのことがあった。 | |
| 1938年 | 39歳 (昭和13年) |
| 1月帰国、3月スペイン行き、5月帰国、9月スペイン行きと多忙な移動生活を送る一方、6月には映画脚本『スペインの大地』1000部出版、10月には戯曲・短編集『第五列及び最初の四十九の短編』5000部を出版した。『第五列』はスペイン市民戦争を舞台にした唯一の戯曲作。そして短編で見いだされる暴力主題を扱いながらも倫理的判断を加えず短い文章を基本とするドライな「ハ−ド・ボイルド・スタイル」の確立は、スペイン市民戦争の体験や再び世界大戦の再燃が予兆される非情な現実と、第一次世界大戦の虚無体験から出発した世代の精神的表明でもあった。 | |
| 1939年 | 40歳 (昭和14年) |
| 3月にフランコ軍事政権側の勝利という結果でスペイン市民戦争が終結。この時よりキュ−バのハバナ市に移り、ホテル・アンボスを拠点に『誰がために鐘は鳴る』の執筆を開始する。 このホテルから歩いて行けるバ−&レストラン「ボデギ−タ・デル・メディオ」ではキュ−バ生まれのカクテル「モヒ−ト」を、そして「フロリディ−タ」では「ダイキリ」を愛飲した。この「フロリディ−タ」の店主でありバ−テンダ−となったコンスタンテ(コンスタンティノ・リバライグア・ベルト)との会話からシャ−ベット・タイプのダイキリ・カクテル「パパ・ヘミングウェイ」も考案し、これをダブルで一晩に12杯は飲んでいたという伝説も生まれた。9月に第二次世界大戦が勃発する。 | |
| 1940年 | 41歳 (昭和15年) |
| 3月に戯曲『第五列』がニュ−ヨ−クで公演される。6月に戯曲『第五列』のみの別刷り1200部を出版。10月に、スペイン共和国軍への連帯の意義や義勇兵として参加した他国兵の自己犠牲の精神を数日間の戦闘場面に凝縮した『誰がために鐘は鳴る』が出版され、たちまちのうちに75000部を売り切り、翌年4月までの6か月で50万部を売る大ベストセラ−になった。11月にポ−リ−ンと離婚。マ−サ・ゲルホ−ンと三度目の結婚生活を始める。 | |
| 1941年 | 42歳 (昭和16年) |
| 6月に日中戦争報道特派員としてマ−サと中国およびアジアを取材旅行。ハバナ市郊外のサンフランシスコ・デ・パウラの高台にある敷地15エ−カ−に及ぶラ・ビヒーア邸を『誰がために鐘が鳴る』で手にした印税で購入し、帰国後移住。フィンカ・ビヒーア(見張り農場)と名付けたこの家から愛艇を係留したコヒーマルの海岸やハバナ市内を往復した。12月8日に日米開戦。 | |
| 1942年 | 43歳 (昭和17年) |
| 夏までにトロ−リング用愛艇ピラ−号を武器弾薬を搭載出来るよう改造し米海軍に提供。1944年4月までキュ−バ沖に侵攻してくるドイツ潜水艦(Uボ−ト)の哨戒任務に9名の乗組員と共に従事。10月に企画もの「戦争文学選集:戦う男たち」の編集・出版作業にあたる他、1500部限定出版の特製本『誰がために鐘は鳴る』も出版。 | |
| 1943年 | 44歳 (昭和18年) |
| マ−サ夫人は「コリア−ズ」戦時特派員として渡欧、45年まで各戦地を移動取材する。ハリウッドで『誰がために鐘は鳴る』(サム・ウッド監督、ゲイリ−・ク−パ−、イングリッド・バ−グマン主演)が映画化される。 | |
| 1944年 | 45歳 (昭和19年) |
| 4月にマ−サ夫人と会うためもあってヘミングウェイも「コリア−ズ」誌特派員となり、イギリスに渡るが結局すれ違いで会えず。イギリス空軍付き報道員となるが5月にロンドンでの自動車事故で頭部に負傷。しかし6月にはノルマンディ−上陸作戦に随行してフランスに渡り、所属を変えてフランス人のゲリラ軍に入り、パリ奪還作戦に必要な情報収集任務に就いた。8月にパリが連合軍の手に戻る際には正規軍より先にパリに入り、さらにドイツとの国境線(ジ−クフリ−ト・ライン)まで行ってしまったため、9月には「ジュネ−ブ協定戦時非交戦者安全服務規定」違反の容疑で調査を受ける。11月には再び戦場に赴き、ユルトゲンの森の激戦に参加する。12月にはルクセンブルグに戻り、ここで実弟レスタ−と再会を果たす他、雑誌「タイム」の女性特派員メアリ−・ウオルシュとの愛が芽生える。 | |
| 1945年 | 46歳 (昭和20年) |
| 3月に帰国。5月にドイツの無条件降伏、8月には日本の無条件降伏をもって第二次世界大戦も終わる。12月には妻マ−サと離婚。『持つと持たぬと』(邦題「脱出」ハワ−ド・ホ−クス監督、ハンフリ−・ボガ−ド主演)が映画化。 | |
| 1946年 | 47歳 (昭和21年) |
| 4月にメアリ−・ウオルシュと四度目の結婚。 | |
| 1947年 | 48歳 (昭和22年) |
| 戦時法動員としての活躍に対して「ブロンズ・スタ−」勲章が授与される。 | |
| 1948年 | 49歳 (昭和23年) |
| キュ−バでの執筆活動に専念。 11月に『武器よさらば』特製本5300部が出版される。 | |
| 1949年 | 50歳 (昭和24年) |
| 新妻メアリ−とヨ−ロッパ旅行。イタリア滞在中に銃の暴発による銃弾の破片で眼を負傷し、一時は失明も危ぶまれた。 | |
| 1950年 | 51歳 (昭和25年) |
| 雑誌「コスモポリタン」2月号から6月号にかけて小説『河を渡って木立のなかに』を連載し、9月に単行本として75000部を出版。創作活動では約10年の空白を経て発表された作品だったが批評家には不評であった。また『持つと持たぬと』が映画化(邦題は『破局』)された。 | |
| 1951年 | 52歳 (昭和26年) |
| 4月に中編『老人と海』を脱稿。6月に母親グレ−スが死去するが葬儀には参列しなかった。 | |
| 1952年 | 53歳 (昭和27年) |
| 雑誌「ライフ」9月1日号に『老人と海』を全文掲載。タイミングを合わせて9月8日には単行本も出版。老漁師サンチァゴの三日間に渡る大マカジキとの闘いを描いたこの作品でピュ−リッツア−賞を受賞(発表は53年になって)。『キリマンジャロの雪』(ヘンリ−・キング監督、グレゴリ−・ペック、エヴァ・ガ−ドナ−主演)が映画化。 | |
| 1953年 | 54歳 (昭和28年) |
| 夏よりメアリ−夫人とスペイン、アフリカ狩猟旅行にでかけるが、ちょうどコンゴ地方でマウマウ団の反乱が勃発し、「ルック」誌特派員として取材報道のため12月にはケニヤに移動する。 | |
| 1954年 | 55歳 (昭和29年) |
|
1月にウガンダのナイル河上流で飛行機墜落事故。当初は死亡と報道されたが一命はとりとめた。但し頭蓋骨裂傷、全身火傷、脊髄損傷、内臓破裂で以後肉体的頑健さを回復できることはなかった。メアリ−夫人も肋骨骨折で重傷だった。 4月には米国アカデミ−賞受賞。10月にはノ−ベル文学賞も受賞したが怪我が回復せずストックホルムでの授賞式には参列できなかった。 |
|
| 1955年 | 56歳 (昭和30年) |
| リハビリもあって、もっぱらキュ−バでの生活を楽しむ。 | |
| 1956年 | 57歳 (昭和31年) |
| 前年と同じくキュ−バで酒と釣りと執筆三昧の生活だったが、秋から始まった映画『老人と海』のロケにも参加するようになった。 | |
| 1957年 | 58歳 (昭和32年) |
| 秋よりパリ時代を回想した遺作となる『移動祝祭日』の執筆開始。「アトランティック・マンスリ−」誌11月号に短編オムニバス『二つの闇の物語』を発表。『日はまた昇る』(ヘンリ−・キング監督、タイロン・パワ−、エヴァ・ガ−ドナ−主演)の映画化と『誰がために鐘は鳴る』の再映画化ロケが始まる。 | |
| 1958年 | 59歳 (昭和33年) |
| 『老人と海』(ジョン・スタ−ジェス監督、スペンサ−・トレイシ−主演)、『武器よさらば』(チャ−ルズ・ヴィドア監督、ロック・ハドソン、ジェニファ・ジョ−ンズ主演)が映画化。体調はよくなかったがスペインの闘牛見物で過ごすことが多かった。 | |
| 1959年 | 60歳 (昭和34年) |
| キュ−バ革命が勃発し、始めは革命の闘士フィデル・カストロの立場に同情的だった。しかしキュ−バの知識人亡命や対米関係悪化に伴うアメリカ資本の撤収の動きにヘミングウェ−自身このままキュ−バでの生活が続けていけるか不安が高まる。夏に夫婦でスペイン各地の闘牛を見て回るが視力がひどく弱り、ノイロ−ゼ気味になる。秋には狩猟目的でアイダホ州サン・バレ−に滞在。ここでメアリ−夫人が右腕に重傷を負ったことやヘミングウェイ自身も健康を崩し、ノイロ−ゼ症状がひどくなる。 | |
| 1960年 | 61歳 (昭和35年) |
| メアリ−夫人の回復を待って一時ハバナに戻る。5月15日にそれまで毎年開催されていた国際トロ−リング大会「ヘミングウェイ・カップ」で個人優勝したフィデル・カストロ首相を祝福し親交を深めたが、結局キュ−バを脱出することにし、二度と戻ることはなかった。アイダホ州ケチャムに住居を移すが、キュ−バの豪邸とは大きく違い、コンクリ−トの巨大な箱という城塞であった。雑誌「ライフ」9月号から二人のライバル関係にあるスペイン人闘牛士を扱ったノンフィクションのルポルタ−ジュもの『危険な夏』を三回連載。健康悪化のため、11月30日にはミネソタ州ロチェスタ−市メイヨ−・クリニックに入院。糖尿病と高血圧の問題もあったが治療の中心はノイロ−ゼ治療であった。 | |
| 1961年 | 享年61歳 (昭和36年) |
| 1月に退院後、未完成の『移動祝祭日』を書き進めるが4月末に再度入院。6月に退院がゆるされるがアイダホ州ケチャムの自宅に帰りつい翌日の7月2日午前7時30分頃玄関応接間で死亡。猟銃の手入れ中の暴発による頭部損傷の事故死と発表されているが、父親と場合と同じく、銃による自殺と認識している人は多い。20日後に控えた62歳の誕生日をついに迎えることはなかった。遺骸はケチャム墓地に埋葬。また遺言でキュ−バにあったラ・ビヒーア邸はキュ−バ政府に寄贈され、現在はヘミングウェイ博物館として蔵書、書斎、タイプライタ−、写真、手紙、動物剥製などが保存管理され一部一般公開されている。 | |
| 1964年 | (昭和39年) |
| 4月に若き時代のパリでの日々を回想した遺作『移動祝祭日』が出版される。 | |
| 1970年 | (昭和45年) |
| 戦争体験、恋愛、父子関係、孤独などヘミングウェイ自身の自画像に近い画家ト−マス・ハドソンを主人公とした『海流の中の島々』が出版される。 | |
| 1976年 | (昭和51年) |
|
三男グレゴリ−の回想録『パパ』の出版 四度目の妻メアリ−・ウオルシュの回想録『ハウ・イト・ワズ』が出版 |
|
| 1986年 | (昭和61年) |
| 母親との不幸な関係や女性性に対する心理的葛藤を明らかにした小説『エデンの園』が出版される。 | |
|
注記: 年譜作成にあたっては以下の資料を参考にし、適宜引用しました。表記、語句、表現などは編集者の個人的判断で修正、加筆など行っております。全ての責任は編集者に帰するものです。 (加藤 薫)
集英社版「世界文学全集」77巻 巻末年譜 、1977年、集英社
|ヘミングウェイ生誕100年記念事業(報告) |アーネスト・ヘミングウェイ写真展(報告)| |ヘミングウェイ生誕100年記念図書展(報告) |記念Tシャツ |トップページ| |