| いろいろなキューバが見えてくる |
| Vol.1「1963年 キューバ日記 ― 栄光と感動の1カ月」
(第1回/4回連載)
近藤彰利 (写真家) |
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![]() 国際写真コンクールを主催した I.C.A.P.(キューバ諸国民友好協会)の建物 |
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4月17日(水)
国際写真コンクール入選でキューバに招待される 日本ジャーナリスト会議事務局の鎌田さんから突然電報が来た。すぐキューバ大使館へ行くようにとのこと、早速港区霞町にある大使館の住所を聞いて行ってみた。すごくハンサムなマルチネス代理大使が「あなたは先日の国際写真コンクールで一等賞になり、本国から招待されました。行きますか?」とにこにこしながら、ヨーロッパ回りの航空券と旅行保証書のようなものを渡してくれた。
4月24日の出発日まで一週間しかないので大変だった。旅券交付の手続き(外務省が特別に二日で出してくれた)、外貨持ち出しの手続き(1ドル=360円、200ドルまで、但し、わが家では100ドルしか用意できなかったが)、持って行くフィルム、旅行用品の準備等々、間に合ったのが不思議なくらいの慌ただしさだった。 実は昨年9月、ジャーナリスト会議の機関紙やアカハタに、キューバ政府が革命三周年を記念して、「帝国主義と戦う諸国人民」というテーマで国際写真コンクールを開催する。入選者は63年1月の革命記念日の行事及びその後一カ月間、キューバ各地に招待する旨の記事が載ったので、私もそのころ通いつめた砂川の、米軍立川基地拡張反対闘争での写真を五点送ったのだった。しかし、その後62年暮れ、世界を震撼させた、例のソ連ミサイルのキューバ持ち込み問題による所謂”キューバ危機”が起き、写真コンクールどころではない情勢になってしまった。こちらもいつの間にかすっかり忘れていたところへ、この4月になって突然電報が来たというわけであった。 |
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4月24日(水)
はじめて乗る飛行機、はじめての海外旅行 午前10時、小雨の中、小学校に入学直後の息子、大勢の友人たちに見送られて、羽田空港からBOAC機で出発。年は32歳になっているが飛行機に乗るのも、まして海外に行くのも初めてのことなので恐ろしく心細い。幸い、キューバのメーデーに招待された総評の真木、水品両氏も同じ便なのでいくらか気が楽になったが、果たして、香港で急にほかの飛行機に(エンジン・トラブルのため)乗り換える時、せっかくもらって行った、ワンカートンのピースを前の飛行機の座席に忘れて来てしまうというありさまだった。
バンコク、ニューデリー、テヘランと給油しながら夜中の11時、ようやくレバノンのベイルートに到着、ここで明日夕方のチェコのプラハ行きの便を待つことになった。軍服姿の税関の荷物検査は包み紙まで破るあくどさだったが、ホテル、ロードに泊まることが出来た。 |
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4月25日(木)
ベイルート、エキゾチックなアラブの街 午前8時起床。真木さんの友人の三井物産ベイルート支店長、小山さんと連絡がとれ、彼の車で市内見物をさせてもらう。初めて見るアラブの街は、すべてが珍しく、エキゾチックな光景だ。ベールを被った女性をうっかり撮影すると、その亭主に殺されることもあるなどと小山さんにおどかされ、文化、習慣の違いとは恐ろしいと思う。ゴンドラというレストランで民族料理というのをご馳走になったがこれまたエキゾチック過ぎて余り食べられない。
夜、カジノとフランスの美女たちの舞踊に行ったが撮影禁止なので、ただ眺めるしかなかった。 |
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4月26日(金)
1日遅れでベイルート発、プラハへ 昨日午後7時のプラハ行きのチェコ機が来なかったので、今日はベイルート北東の山の上にある、紀元前アレキサンダー大王の宮殿だったというパールベックの遺跡に連れていってもらった。立ち並ぶ空を圧するような大石柱は何処から運び上げたものなのだろう? 帰途、立ち寄った中華料理はとても美味しかった。小山さんにはすっかりお世話になってしまった。
夜11時半、ようやく来たチェコ機でベイルートを出発、プラハに向かう。一日延びたホテル代をだれが払うかでもめたが、真木さんのフランス語でチェコ航空が払うことになったらしい。しかし、プラハまでの飛行中、機内の気圧調整が悪いためか、耳が突き刺されるように痛く、鼓膜が破れるのではないかという恐怖に襲われた。 |
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4月27日(金)
プラハ、しっとりとした美しい博物館のような街 約4時間の飛行で、午前2時半プラハに到着。空港にはチェコ労働組合評議会の日本語通訳、イワン・クロウスキーさんが出迎えてくれ、以後2日間お世話になる。
高い尖塔のあるソ連式の立派なホテルで9時起床、すごく美味しいサラダの朝食後、労組評議会本部訪問(私は本当は労組代表ではないのだが)、そのあと市内見物、有名なモルダウ川、カレル橋、ハラチャニー城、教会など見学。街のあちこちに”我々はソ連と一体だ”と書かれた大きな横断幕が翻っていたが(メーデー直前のせいか)、街自体は、しっとりとした美しい博物館のような印象だった。 |
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4月28日(日)
ナチスドイツ軍が虐殺した村、リディゼ プラハから車で長閑な田園地帯を2時間位か、リディゼ村に行く。クロウスキーさんの説明と、一つの建物(博物館のようになっている)の中で上映している記録映画によれば、1942年ナチスドイツ軍がレジスタンスによってハイドリッヒ将軍が殺された報復としてこの村を襲い、女と子供は強制収容所へ送り、男173人を虐殺して村を焼き払ったという。(戦後生き残った、数名の女性たちの証言)
そのあと、14世紀、中欧8カ国の王だったカール・シュタインの別荘などを見学してホテルに帰ったが、全部地続きのヨーロッパの歴史と島国日本の歴史の違いが興味深かった。 夜、世界労連の事務局に勤務している平田さんという人が家族と一緒にホテルに訪ねてきてくれた。たまに来る日本人が懐かしかったらしい。 クロウスキーさんからの連絡で明日のキューバ行きの予定が決まり、真木さん達は午後3時のチェコ航空で、私は9時のキューバ航空で出発することになった。いよいよ明日からは一人旅になる。 |
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4月29日(月)
プラハ発、いよいよハバナへ 朝4時すぎ起きてしまったのでホテルの付近を散歩しながら写真を撮って歩く。まだ5時ごろだというのに通勤途中らしい人達が大勢歩いている。ところどころの建物の前に長い行列ができているので、チェコの人達はこんなに朝早くから職場の前で門が開くのを待っているのかと感心して、その並んでいる人達にレンズを向けたとたん、男の人も女の人も一斉にまるで殴りかからんばかりに怒鳴り始めたのだ。びっくりして、急いでその場を離れたが、なんでそんなに怒られたのか、どうしても理解出来なかった。あとでクロウスキーさんに聞いてみると、彼は真っ赤になって「あれは肉を買うために行列していたので、それを資本主義国に悪宣伝されると思ったのでしょう」と説明してくれた。社会主義の一面を見てしまったのか?
その後、同氏からまた連絡があり、夜9時の飛行機が4時に繰り上がったとのこと。そういえば私の切符は、帰りもプラハ回りなので心配になり、相談すると、キューバを出発する前にハバナのチェコ大使館へ行ってクロウスキーさんに連絡してもらえば、また空港で待っているということになり、一安心する。 キューバの飛行機は英国製のブリタニアという型で四発の大型プロペラ機だった。これで大西洋を飛んで行くわけだが、この飛行機は海に落ちてもなかなか沈まないように出来ていると言う。 結局、6時半プラハを出発、11時アイルランドのシャンノン、更にはカナダのニュー・ファウンドランド島のガンダーで、それぞれ給油をしながら4月30日午前、エメラルド色に怪しく光るバハマの海や島々を眺めながら一路南下、ついに無事、キューバのハバナ空港に到着したのだった。 |
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4月30日(火)
ハバナ、ぬけるように碧く澄みきった空 午後1時30分、キューバ航空ブリタニア機はハバナ空港に着陸した。ぬけるように碧く澄みきった空、めくるめく強烈な太陽、わっと体を包む熱気、空港建物に書かれた”アメリカ大陸の自由な土地”という大きな字がいきなり目に飛び込んでくる。その上には労働者のこれまた大きな絵が立っている。”ここがラテン・アメリカ唯一の社会主義国キューバだ!”。
ブリタニアから降り立ち、余りの明るさにくらくらしていると、セニョール・コンドウと呼ぶ声がして数人のキューバ人が出迎えてくれ、レバノンで味わったような屈辱的な通関手続きも何もなく、大型の車でホテル・リビエラという二十階建てのきれいなホテルへ案内してくれた。この人達は、今回の国際写真コンクールを主催した革命政府の中のI.C.A.P (キューバ諸国民友好協会)という組織の人達で、以後約一ヶ月の間、言葉も習慣もさっぱり分からない私の面倒を、なにくれとなく親切にみてくれることになる。 今回のコンクールの募集規定では世界から10人の入選者を招待するということだったが、ロビーに降りてみると、まだ全員が到着していないような感じだ。I.C.A.P の人が、集まった何人かを紹介してくれたが、誰がだれだか、まだよく分からない。みんなで街に出て見た。街は夕暮れに近かったが、メーデーの前日のせいか、いっぱい人々が歩いている。街角のあちこちに、幾つものグループが、軽快でロマンチックなラテン音楽を奏でている。これは素晴らしい被写体ではないか! ところが、あろうことかカメラをホテルの自分の部屋に置いて来てしまった。恥ずかしい。いくら暑さで頭がぼーっとなっていたとは言え、これはキューバ到着後、第一番目の大失敗だ。 明日のメーデーでは、いい写真を撮ろう。 |
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5月1日(水)
働く者が主人公になった国ならではの、真の”祭典”キューバのメーデー
朝食後、ロビーに集合、メーデーの会場である革命広場へ向かう。独立記念塔が、真っ青な空に聳え立つ広大な広場は、すでに様々な服装をした人々でいっぱいになっていた。その中を私達は、特別待遇というか、巨大なホセ・マルティ(キューバ独立の父だという)の大理石の像がある壇上に案内され、メーデーの行事をすべて自由に撮影することが出来た。初めて見る”社会主義”キューバのメーデーは、実に明るく、カラフルで、しかも力強く楽しそうに次から次へと行進する、労働者、市民、農民の姿は「働く者が主人公になった国」ならではの、真の”祭典”だった。一方、この壇上に、有名なチェ・ゲバラやラウル国防相ら指導者の姿は見えるのに、キューバへ行ったら絶対撮りたいと思っていたフィデル・カストロ首相の姿が見当たらない。聞けばモスクワに招待されていて不在だとのこと。彼の写真は絶望なのだろうか!?![]() ![]()
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5月2日(木)
海底トンネルをくぐってプラヤ・ヒロンへ 今日はプラヤ・ヒロン(ヒロン海岸)へバスを連ねてでかけた。というのは、真木さん達キューバのC.T.C (総評みたいなもの)に招待された世界の労組代表達と、時々一緒に行動することになっているらしい。プラヤ・ヒロンというのは、1961年4月17日、アメリカのCIA
に組織された亡命キューバ人達1300人が、反革命の政府を樹立するため、与えられた輸送船団で上陸した場所だという。その前日彼らのB-26爆撃機に各地の飛行場が爆撃され、かなりの損害をうけたが、キューバ人民はカストロ首相を先頭に、急拠、民兵を組織して果敢にこれを迎え撃ち、わずか三日間で壊滅させ、大部分を捕虜にした。
後に、アメリカの財界人が、多額の医薬品と交換にこれらの捕虜を引き取ったと、日本の新聞にものった記憶がある。 海岸ぞいの小さな村には、今は、その時の砲撃で破壊された民家が数軒残っているだけで、二年前の激戦のもようは知るよしもないが、キューバの歴史の上で非常に重大な事件だったと思う。 ハバナからここまで、バスで、片道約4時間かかったが、日本にはまだない高速道路でのバス旅行は、周囲の亜熱帯らしい風景とともに素晴らしかった。特にハバナの市内から港の入り口になっている海の下をくぐる海底トンネルの設備には驚かされた。ついでに言えば、ハバナには20階以上の建物が幾つもあり、東京には、まだ霞ヶ関ビルが一つしかないのでハバナの方が、進んでいると思った。 夜は、10時ごろ映画館に案内され、キューバ革命、民族舞踊などの記録映画と革命の裏で暗躍する投機屋たちを皮肉った劇映画を見た。言葉は解らないが、ストーリーは大体理解できて、なかなか面白かった。夜中の1時すぎにホテルに帰る。リビエラの704号室の窓から見るハバナの夜景は、実にロマンチックで美しい。それにしても、この国の人達は、おそくまで夜を楽しんでいる! |
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5月3日(金)
トロピカル・ビール工場、子供の図書館、カテドラル 午前中、トロピカル・ビール工場を労組代表団の人達と一緒に見学。一滴のアルコールも飲めない私には、せっかく勧められるビールも興味無し。トロピカル庭園で、にぎやかに歓迎昼食会。この場所はハバナの中心部のような気がするが、まだ来たばかりでここの地理がさっぱり解らない。
午後はカメラマン達だけで、旧ハバナ地域を見学、先ずは子供の図書館に行く。貧富の差が極端に激しいと言われる中南米にあって、それを打ち破るために革命を成功させたキューバでは、革命の翌年1960年を「農地改革の年」、61年を「文盲一掃の年」として、保育園から大学まで、すべて無料にして教育の徹底に努力しているという。(ちなみに62年は「計画の年」、今年は「組織の年」だそうで政党、市民、農民等の組織を整備することになっているとか。)子供の図書館は立派な建物で、大勢の子供達が本を読んだり、チェスをやったりしていた。 そのあと、大きな教会(カテドラル)へ行く。大変に古く、威厳のある建物だが、革命でカトリックが権威を失った今は、扉も閉ざされ、ひっそりとしていた。その前の広場をとり囲んで、やはり古い建物が並んでいるが、一つの建物に入ると、そこにベントレリという南米のチリからきている版画家のアトリエがあった。彼は私が日本から来たというと、まだ見たことはないがと、はにかみながら、刷り上がったばかりの富士山の絵に自分のサインをして贈呈してくれた。美しい絵だった。
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5月4日(土)
CUBA SI YANKI NO 朝から又海底トンネルをくぐって東ハバナ(海沿いに新しく造成された地域)の労働者達のために建てられた住宅を見に行く。今日気がついたのだが、このトンネルの入り口近くにある橋の側面に、大きなペンキの字で「CUBA
SI YANKI NO」と書かれている。革命以来ことごとに、いじめられているアメリカに対する、キューバ人の怒りの言葉だ。61年のプラヤ・ヒロンの侵攻、そして又、つい数カ月前のキューバ危機のあととあって、ホテル・ナショナルの海に面した庭に高射砲が北方を向いて立ち並んでいるなど、キューバ人民の愛国、反米の熱気が街中にあふれかえっている感じがする。
東ハバナの労働者住宅は、五階建てと十階建てのアパートがうまい配置で何十棟も建っているが、壁の配色がとてもあかぬけている。たっぷりとした庭の、真新しい街灯によじ登って遊んでいた嬉しそうな子供達の写真はいい作品になりそうだ。午後はハバナ港とそのその付近を撮影して歩いた。ハバナ港のある湾は、入り口はわずか5、60メートルしかないようだが中は非常に広く、見るからに天然の良港だ。スペイン領時代、襲いくるイギリスなどの海賊船に備えて築かれた、堅固な要塞(モロ)が今も湾の入り口の両側に美しく聳えている。 すぐ近くにある、革命前の大統領官邸も美しい建物だが、その前のキューバ独立戦争の英雄の銅像は、市内の数ある記念碑の中でも特に美しいと思った。 今日は、少しのんびりした取材だったのと、五日目で、いくらか気分にゆとりが出来てきたせいか(ここのスペイン語はぜんぜん知らず、英語も戦争中に育ったので、殆どわからないが)、我々の世話をしてくれるキューバの高名な写真家オズバルド・サラスさんや、ひょうきんなリボリオ氏などとも大分親しくなって来た。 |
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5月5日(日)
サンタマリア海水浴場、I.C.A.P主催のレセプション 東ハバナのさらに東側の海岸にあるサンタマリア海水浴場へ行く。日本式に言えば”青松白砂”の美しい海岸だが、日本から来ると、海岸の明るさが一段と明るくて、これが亜熱帯というものかと感心する。キューバの松は、葉が下を向いて生えていて、先っぽが日本の松のように痛くないのも面白い。
海岸は、五月だというのに、けっこう大勢の人達が泳いだり、遊んだりしていた。ただし、キューバの人に言わせると、我々は”夏しか(?)泳がない”のだそうだが。 夜は、I.C.A.P 主催のレセプションがあり、大勢の人達がきれいな服装をして集まり、大いに飲み、おしゃべりして(あまり解らなかったが)楽しかった。そのあと、こんどはホテルの一階にあるキャバレー(大きな舞台がある劇場みたいな)へ行き、3時間くらいかかるショーを(キューバの人達はチョーと言うが、スペイン語には「シ」という発音がないらしい)見物する。美しい踊りと音楽だったが、またまた夜中の3時ごろになってしまった。疲れる。
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5月6日(月)
給費生(ベカ)の学校 午前中は休みで、ゆっくり眠った。午後からベカ(給費生)の学校へ行く。よくは解らないが、保育園から大学まで、学費は全部タダだが、寮に入って生活費まで国が負担してくれるのをBECAといい、約7万人いるのだそうだ。今日行ったのはバレーを教えている学校で女性の校長さんが、長々と説明してくれたがさっぱり解らなかった。可愛い中、高校生くらいの女生徒達が、バーにつかまって熱心にバレーの練習にとりくんでおり、また青々とした大樹の下で、男女学生達がギターを弾きながら楽しんでいたり、いい写真になった。
夜は、こんどは大統領主催のレセプション。ドルチコス大統領の顔もよく見えない程の大人数で(労組の代表団も一緒なので)アルコールの飲めない私には、このようなレセプションは、いささか憂うつになって来た。 |
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5月7日(火)
アーネスト・ヘミングウェイ―コヒマール海岸 午前中、ハバナ市郊外のアーネスト・ヘミングウェイが、キューバに滞在していた時、住んでいた家を見学する。彼はキューバが大好きで、1961年アメリカで、痛ましい自殺を遂げる前年まで、かれこれ20年間もこの家に住んで、次々と作品を書いたという。門を入ると庭はいろいろな亜熱帯植物が生い茂り、その中に白い、瀟洒な二階建ての建物が建っていた。部屋の天井や壁には見事な角をもった動物の頭の剥製がいっぱい飾られていたり、彼が使っていた、ひどく古いタイプライター、その他生前の生活を偲ばせる品々が、そのまま残されている。興味深かったのはトイレで、彼が腰掛けたまま思いついたことを鉛筆で書き留めたのが、その壁に幾つも消え残っていたことだ。若いころ、スペインの市民戦争に義勇軍として駆けつけた彼は、キューバの革命戦にも非常な理解を示し、その後、カストロ首相とも親交があったという。
そのあと、彼の作品「老人と海」の舞台だといわれる東ハバナのコヒマール海岸へも行ったが、それほどきれいな場所でもなかった。しかしヘミングウェイにとっては、このひなびた海岸こそ、海に生き、海に死んだあの老人のかたくなな生きざまを描く舞台として、一番気に入っていたのかもしれない。 夜は、またまた、外務省の新聞課長招待のレセプション。例によってにぎやかで楽しい集まりだったが、この頃になると、招待されて来た私以外のカメラマン達とも顔見知りになってきたし、キューバ側の我々の世話をしてくれるサラスやリボリオ達カメラマンとも、すっかり親しくなって来た。この夜はリボリオ氏が奥さんを連れて来て紹介したが、すごいグラマー美人で驚いた(この前はサラス氏が老妻を紹介した)。 宴の途中、やせた黒人の紳士が、人々をかきわけながら近づいて来て、「ニホンノ ヒト デスカ?」と声をかけた。聞いてみると、オスカル・オラマス・オリバという人で、革命後、初代の駐日代理大使として東京に居たという事だった。ひどく懐かしがって、いろいろと早口で話してくれるのだが、大部分は解らなかった。ただ、東京の池上さん(ジャパン・プレス)マキーコさん(山本満喜子)に、よろしく言ってくださいとのことだったので手帳にひかえた。 黒人のオラマスさんが出て来たので、念のため、キューバに来てから私が見た(まだハバナだけだが)キューバの人種構成は、白人と黒人が、それぞれ約20パーセント、あとの60パーセントの人達は、薄い人から濃い人まで、いろいろな混血の色合いの人達であるように思われる。ごく一般的にいえば、”コーヒー色の肌”をした人達と呼んでもいいかも知れない。アメリカのような人種差別は、ここでは全くないようだ。 明日から、いよいよ地方へ出発することになったので荷物の準備をしなければならない。 (続く→第2回)
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