リレー・エッセイ
 
いろいろなキューバが見えてくる
 
Vol.1「1963年 キューバ日記 ― 栄光と感動の1カ月」
(第2回/4回連載)
近藤彰利 (写真家)
バックナンバー(第1回)
Map
5月8日(水)
ピナル・デル・リオ州へ、ロス・ピノス農場見学

 今日からピナル・デル・リオ州へ出掛ける。もらったキューバの観光地図によれば、一番左端(西)の州だ。キューバはワニのような形の(事実、ここの人達はそう呼んでいる)細長い島で、面積は大体日本の三分の一だという(大きな島2つ、小さな島1600がある)。
 私たちは格好のいいキャデラック(革命前、独裁者のバチスタ大統領が30台も持っていたのを、今はI.C.A.P.が外国人接待用に使っているのだそうだ)に分乗し、こんどは市の北側にある川の下のトンネルをくぐって、キンタ・アベニーダ(非常に美しい大通りで、以前のブルジョア達の邸宅が並んでいる)を通り、市外に向かった。
 1時間くらいでサン・クリストバルという町に着き、郊外のロス・ピノス農場を見学した。主としてトマト、キューリなど野菜を作っているが、青々とした畑の広さに感心する。ここに沖縄出身の大兼正春さんという日本人移民の二世(39歳)の人がいたが、両親は既に亡くなり、殆ど日本語も話せなくて、寂しい気がした。
 この辺り、我々が走っている道路は、カレテラ・セントラルと言い、キューバ全島の真ん中を、この州から南端のオリエンテ州まで貫いている古くからの幹線道路で、大木の並木が延々とつづく、とても印象的な道路だ。時々、牛の群れに行く手を阻まれたりして面白い。
 小高い岡の上にある観光地ソロアに到着、今晩はここで宿泊だという。夕方、付近にあるアヒルの飼育池を見学、中国から輸入した沢山のギャー、ギャー騒ぐアヒルの群れを、追い立てて歩く黒人少年の姿がほほえましかった。
 
5月9日(木)
ビニャレス、タバコ栽培

 ソロアを出て州都、ピナル・デル・リオ市へ行く。初めての地方都市だが、かなり大きな町だというほかには、余り印象は残らなかった。それから、次の有名な観光地ビニャレスへ行く。この辺りは全体がちょっとした高地で、他の州にくらべて土地がやせているとかで、専らタバコの栽培をしていた。ひときわ高い所にたっている別荘風のホテルから見ると、だんごをポイポイとちぎって並べたような形の山々が非常に面白い。このホテルのきれいなプールで、ハンガリーのカメラマン、パプ氏の奥さん(彼だけ奥さん同伴だった)コーネリアさんが、鮮やかに泳ぎまくり、もとオリンピックの選手だったという話がなるほどとうなずけた。
 午後は、付近にある大きな鍾乳洞を見物する。中はかなり広く、大きな岩石の下には、澄みきった清水が流れていて、暑いキューバなのに、さすがにここは、ひやっとするほど涼しかった。
 
5月10日(金)
集団農場付属小学校見学、急遽ハバナに戻る

 今日は、ここピニャレスの近くにあるマタアンブレの銅山を見学する予定で、いい写真になるのではと楽しみにしていたのに、何故か中止になってしまった。代わりに、エル・ロサリオの集団農場付属の小学校と診療所を見学して、熱心に勉強する子供達やきれいな女の先生の写真などを撮るが、なにかちょっと拍子抜けしたような気分だった。
 午後、またもや急に予定を繰り上げてハバナに帰ることになった。
 ホテル・リビエラに帰ってみると、部屋が909号室に替わるという。引っ越しをすませ、久しぶりに妻に、これまでの報告やら、小学校の一年生になったばかりの息子はどんな様子かなどという長い手紙を書く。息子の入学した虎ノ門の西桜小学校が都心の過疎化で一年生がわずか18人しかなく、統廃合問題なども出始めていたので、一ヵ月も離れているのがとても心配だ。数えてみれば、羽田を出発してからもう17日もたったのだから。
 
5月11日(土)
ホテルでの食事

 朝、断水になった。ホテルの方から部屋を1015号室に替えてくれるという。実は3,6,9という数字が嫌いなので、昨日入った909号室を替えてほしいと頼んであったのだ。1015号室に急いでまた引っ越す。一層眺めはいいし、快適な気分になった。
 午後も今日は休養日だというので、東京を出る前、キューバ大使館の事務官をしている宮坂さん(長野県からキューバへ移民した、かなり年配の人)から紹介された、在キューバ日本人会会長の長瀬さんのお宅を訪問する。と言っても、ひとりで行ける筈もないので、I.C.A.P.に頼んで車で連れて行ってもらった。とてもきれいな家で、もう八十歳近い感じの長瀬さんと、ほかに三人の日本人の老人達が碁をうっていた。みんな、もう仕事はやめて、毎日こんなふうに碁をうったり、おしゃべりしたりして暮らしているという。この人達は、どうも革命が好きではないようで、その政府に私が招待されて来たせいか、余り話が弾まなかったので適当にひきあげることにした。
 夜7時、それまでずっと止まっていた水がようやく出たので洗濯をする。すると、8時半にまた止まってしまった。どうしたのか? ホテルのレストランに行って食事をする。そういえば、ベイルートでユニークなレバノンの民族料理を食べたことを書いたきり、その後一度も食事の話を書いたことがなかった。キューバに着いてホテルに入ると、 I.C.A.P.から身分証明書のカードと写真入りのホテルの在泊カードを渡される。みんなで食事する時は要らないが、一人で食事をする時は、この在泊カードを見せ、食後、チェケ(計算書)にルームナンバーとサインをすれば、すべてグラティス(無料)というシステムになっている。
 食事はメヌー(こういうスペイン語は早く覚える)を見て注文するのだが、スペイン語の(下に英語でも書いてあるが)メヌーを見ても生まれて初めて外国に来た私には、さっぱりわからない。結局、みんなで食べた時の記憶とか、まわりの人達が食べている物の中で美味しそうなものをウェイターに頼んだりして、少しずつ慣れて来た。
 食べ物は、何でもあって、とても美味しい。時々たくさん注文し過ぎて、どうにも食べ切れなかったり、またポストレ(デザート)の果物(主に、こってりしたゼリー状のもの)が甘過ぎたり多過ぎたりして閉口してしまうこともたびたびあったりした。
 いずれにしても、日本を出発する前、外国での長い一人旅が、果たして自分に出来るのだろうかと、かなり心配して来たのだが、人間、寝るところと食べるものがあれば、何とかなるし、まして、こんなに大事にされているのだからと、今日までのところほっとしている。
 
5月12日(日)
ヘミングウェイ杯かじきマグロ釣り大会

 午前中、水族館へ行く。場所はよく解らないが、市北部の方の海岸沿いだと思う。大小の熱帯魚のようなのが、一杯いた。魚の顔って、よく見ると人間の顔に似ているのが、けっこういるものだ。
 その近くにクラブと呼んでいる建物や、海水浴場があり、その先で、ヘミングウェイ杯・アグーハ(かじきマグロ)釣り大会(毎年開催とか)が行われていて、釣って来た、2メートル以上もあるマグロを吊り上げて、大きさや重さを測って、大騒ぎをしていた。
 午後は動物園、上野のそれとたいして変わらなかったが、檻の中ではなく、進路の草むらからイグアナが、ガサゴソ這いだして来るのには驚いた。
 夜は、I.C.A.P.の職員達とのレセプション。我々カメラマンのグループを主に受け持っている、ビクトル、そのノビア(恋人・婚約者)らしい可愛いテレシタ、サラスの息子さんで、同じくカメラマンのロベルト夫妻などとも知り合った。いつもの、騒々しい立ちパーティーではなく、テーブルを囲んでの、和やかな雰囲気が嬉しかった。
 
5月13日(月)
ハバナ市内見物−カピトリオ(旧国会議事堂)、在キューバ日本人の墓etc.

 先日会った長瀬さんの紹介で、市のセンターにある柳原さんの家へ行く。大きな貴金属の店のようだったが、薄暗い店の奥に座っていた年とったお父さんは「もう商売はだめですよ」とさびしそうだ。革命後、企業は次々に国有化され、個人商店もいずれなくなるらしいという。長瀬さんのやっている宿泊所などはどうなるのだろう?
 息子さんが市内見物を案内してくれるということで、徒歩とバスでカピトリオ(旧国会議事堂、ワシントンの議事堂とそっくりで、やや小さい)と、その隣にあるパルケ・セントラル(中央公園)、海岸まで続く美しい並木の大通り、セメンテリオ・デ・コロン(植民者の墓地)などを回ったが、この共同墓地は、立ち並ぶ大理石の墓石が実に立派で美しく、カトリック教の威力を見せつけられるような気がする。その墓地の奥まった一角に「在キューバ日本人の墓」という、これまた立派な石堂が建っていた。一時は1000人以上も居たという日本人移民の墓で、キューバと日本で募金して建てたものだそうだ。
  初めて、日本語で説明されながら歩くハバナの街の美しさは、また格別のものがある。昔、コロンブスが「人間の見た一番美しい島」と言ったそうだが、この街と海岸の風景はほんとうに素晴らしい。また、街を行き来する女性達の美しさと可愛さは、余り表情を出さない日本の女性達とくらべると、実に魅力的だと思う。すれ違う時、思わず見とれて立ち止まると、にこっと笑って会釈するところなど、なんとも言えない。
 しかし、案内してくれている柳原さんは、(革命前に較べて)汚くなったと、しきりにぼやいていた。この人も革命が嫌いらしい。初めて来た私としては、何と言っていいのか、ちょっと難しい。
 夜、到着が遅れていたソ連のウラジミル・カルミコフが、やっと間に合って、最終的に来られなかった、イギリスとイタリーの二人を除いて八か国の入賞者が揃ったことになる。ソ連、中国、チェコ、東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、ブルガリア、そして唯一資本主義国日本の私、というわけだが、あとの二人はどうして来られなかったのか、残念だ。
 明日から南の方の地方へ出発するという。
 
5月14日(火)
弾痕生々しいサンタ・クララへ

 例の大きなキャデラック2台に分乗して、午後ハバナを出発、ハイウェイを1日目の目的地、サンタ・クララに向かって突っ走る。途中、撮影したい美しい風景や、面白そうな事物が、あちこちにあったが、2、3回休憩しただけで、ハバナから300キロくらいのラス・ビジャス州、サンタ・クララに、夜の7時半ごろ着く。大きな車といっても、運転手を入れて6人乗ると、かなり窮屈で、ものすごく暑く、そのうえカーラジオは、大きな音でラテン・リズムを流しっぱなし、しかも、同乗のキューバ人カメラマン、リボリオが、その音楽に合わせて、大きな指輪で車の窓枠をカタカタと叩き続けるので、だんだん、焦々して来て疲れきってしまった。
  夕食後、ホテルの近くにあるパルケ・セントラルに出かける。この市は、地図で見ると、細長い島の、大体まんなかにある。1958年、革命戦争の末期、シエラ・マエストラの山地から、首都ハバナを目指して北上して来たチェ・ゲバラとカミロ・シエンフェゴスたち革命軍に対し、独裁者バチスタ大統領は、大軍を軍用列車で送り、ここサンタ・クララで決戦を挑んだが大敗し、その知らせを聞いて、亡命したという話だ。我々が泊まったホテルの外壁にも、たくさんの弾痕が生々しく残っている。
 パルケ・セントラルは大きなフラン・ボヤーン(火炎樹)の木が茂り、(翌朝見ると、本当に真っ赤な火のような花が咲いていた)中央に白い野外音楽堂があって、わりと静かな音楽を演奏している。丁度日本の盆踊りの宵のような感じで、大勢踊ったり、歩き回ったりしていて、子供もたくさん出ていた。綿菓子を売っているので、キューバにもあったのかと感心した。
 この夜からドイツ人のヘッセ氏と同室になる。ちょっと酷薄な感じがして、余り好きになれそうもない。
 
5月15日(水)
オリエンテ州オルギンまで、写欲を圧し殺しての旅

 この街で、いろいろ撮影して歩くのかと思っていたら、何ということか、朝の7時に、もう出発するのだという。しぶしぶ車に乗りこむと、2台のキャデラックは、中央縦貫道路を猛スピードで走りだす。
 カマグェイ州を(キューバは、この前行った北西のピナル・デル・リオ州から、ハバナ、マタンサス、ラス・ビジャス、カマグェイ、そして東南のオリエンテと6つの州に分かれている )素通りして、夕方6時にオリエンテ州の北部、オルギン市に着いた。この間、数百キロ、常に時速90キロ以上で走り、数回休憩しただけなのだから写真撮影どころではなかった。窓外に走り去る、トロピカルの田園風景(ついでに書いておかなければと思うのは、キューバの面積は日本の三分の一だと言うが、山地が少ないので平地−農耕面積は、日本よりはるかに広いように思う。事実、海岸からちょっと内陸に入れば、地平線が至るところで見られることだ)、 面白い町の家並、フォトジェニックな人々、写欲を圧し殺して、我慢しながらの旅は辛いものだ。
 1977年に14の州(ピナル・デル・リオ、ハバナ、ハバナ市、マタンサス、ビーリャ・クララ、シエンフェゴス、サンクティ・スピリトゥス、シエーゴ・デ・アビラ、カマグェイ、ラス・トゥーナス、オルギン、グランマ、サンティアゴ・デ・クーバ、グアンタナモ)に再編成された。
 
5月16日(木)
キューバ第2の都市サンティアゴ・デ・クーバへ

 午前中、オルギンの市内見物。昨夜泊まったホテルの夕食で食べたフィレテ(ヒレ肉)のステーキがすごく美味しかっただけで、市内では、余り興味をひくような被写体にぶつからなかった。
 夕方、オリエンテ州の州都サンティアゴ・デ・クーバ市に到着。といっても車は市内から引き返し、市を見下ろすような岡の上にあるオリエンテ大学のすぐ近くの、バンガロー風のモーテルに泊まることになる。夕食の食堂では、横で5、6人のラテン・グループが軽快でセンチメンタルなキューバの歌をつぎつぎと歌ってくれ、久しぶりにいい気分になった。
 サンティアゴ・デ・クーバ・・・ここは1953年、カストロたちが、初めて改革の狼煙を上げたところ、工業がキューバでは一番発達しているところ、美しい港や、スペイン時代の大きな要塞のある、キューバ第ニの都市だという。明日からの撮影が待ちどおしい。
 
5月17日(金)
モンカダ兵営襲撃の拠点グランハ・シボネイ

 午前中、市街をスナップして巡る。この市はとても坂が多く、ほぼ中央にある幅の広い、長く高い石の階段は有名なのだそうだ。また家々のバルコニー、窓の鉄格子の形などもスペイン風の独特なものだという。ここはハバナよりも一段と暑く、黒人も多いようで、南国的な情熱にあふれているような感じを受ける。露店、歩いている子供、女性、カメラに群がって来る小学生達など、次々とスナップした。
 午後から、また車に乗って、 海岸沿いに東の方に走り、シボネイ海岸で休む。聞いたことがある名前だと思ったら、あの、歌で有名なシボネイのことで、その昔この島に住んでいた四種族のインディオの中の、シボネイ族の故郷だとか。美しい、小さな入江を見ていると滅んでいったインディオの悲しい運命がしのばれて胸が痛んだ。
 さらに少し行くと、小さな農園の門にぶつかる。ここがグランハ・シボネイといい、かの1953年7月26日、わずか百十数名のカストロたち若者がサンティアゴのモンカダ兵営を襲撃、革命の狼煙を上げた際、武器や兵員を準備したところだという。中の建物は今、博物館のようになっていて、襲撃に失敗して殺された兵士たちの、血に染まった何着もの衣服、靴、銃などが展示されている。また、武器を隠していたという古井戸など、ここが一つの革命の聖地なのだという強い感動を覚えた。
 帰りはすごい豪雨に見舞われた。これがきっとスコールというものなのだろう。真っ暗になって前が見えないくらいだ。湿気もひどく、車の中で汗まみれになり、疲れと重なって気持ちが悪くなってつらかった。
 
5月18日(土)
サンティアゴの工場・スーパー・大学・モロなど見学

 午前中、市内のネジを作っている工場とナイフ、スプーンなど食器を作っている工場などを見て巡った。また「人民の店」と呼んでいるスーパーにも行ったが、大勢の女性買い物客でムンムンしていた。
 その後、建築資材を作っている工場も見学したが、ここは新しく建設された工場で、中は明るく広くて立派な工場だった。特に注意をひいたのは、チェコ人など東欧の人達がキューバ人労働者に技術を教えながら、仲良く一緒に働いていたことだ。”連帯” の美しさを見たような気がする。
 更に、オリエンテ大学に行く。外壁いっぱいにキューバの国旗が書いてある校舎が丘の上に誇らかに建っている。ちょうど休み時間にぶつかったので、廊下や中庭に男女学生の群れがあふれ、とても和やかで、生き生きとした雰囲気だった。
 午後は奥深いサンティアゴ湾の高い岬の先端にある、スペイン時代の要塞、モロを見に行った。ハバナ港の入り口、両側にあるモロに似ているが、こちらの方が遥かに高い岩山の上にそびえたっているし、建物もヨーロッパの城のような堅固な造りだ。こういう要塞をなんでモロというのか辞書を見ると、「鼻面、突き出たもの、航海者の目印になる海岸の岩山」と出ている。なるほど、地名でも要塞という意味でもなかったわけか。
 この城の至るところに、すっかり錆びた大砲が、眼下の海をにらむように並んでいる。財宝を満載したスペインの船を襲ってくる海賊船に向かって、この大砲が、一斉に火を吹く光景は一体どんなだったのだろう。
 観光客や、町の家族連れも何組か見物に来ていたが、リボリオが早速グラマー美人に声をかけ、モデルになってもらって、みんなでパチパチと撮った。

(続く→第3回

バックナンバー(第1回)
「1963年 キューバ日記」へのご感想・ご意見をお寄せください。
Connect to info@casa-de-cuba.com
 
Back
 
copyright(C)Casa-de-Cuba. 2000 info@casa-de-cuba.com