| いろいろなキューバが見えてくる |
| Vol.1「1963年 キューバ日記 ― 栄光と感動の1カ月」 |
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5月19日(日)
休養日、海水浴と映画鑑賞 今日は一日中休養日。午前中、付近のマル・ベルデ(青い海)海岸で海水浴を楽しむ。寒い国から来たカルミコフは人一倍はしゃいでいたので、強烈な南国の太陽に焼かれ、帰るときはまるで全身が火ぶくれのようになってしまった。肩に一寸でも触られると、文字通り飛び上がって痛がる格好が、気の毒だがとてもユーモラスだ。彼はモスクワのボリショイ小劇場の舞台監督をしているそうだが、彼の入選作品は、レーニンの大きな肖像画の前で、おじいさんが小さな孫の肩に手をおいて、なにか話してやっているしみじみとした、とてもいい作品だった。彼自身も実にいい人で、何故か私とウマが合い、言葉も通じないのに、一番仲良しになった。
午後はみんなで映画館に入ってみた。日曜日のせいか、中は人でいっぱいで、アメリカの恋愛ものとソ連の活劇ものの二本立てに興じていた。それにしてもびっくりしたのは、館内はタバコの煙がもうもうとたちこめ、まるで霞を透かして画面を見ているようだ。その中でキューバの人達は、抱き合ったりキスしたりしながら映画を見ている。これもトロピカル風景なのかもしれない。 夜、また街を散歩したが、あちこちに集会所のような場所があり、大勢の大人たちが蛍光灯の下で、なにやら熱心に勉強していた。これが例の識字運動の教室なのか、職業訓練なのかよく分からないが、革命後の経済、文化の建設のため、大勢の人達が大変な努力をしているのにちがいない 。 |
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5月20日(月)
砂糖キビ刈り帰りのボルンタリオ これまで二十日近く、一緒に行動して来た入賞者仲間のうち、ハンガリーのパプ夫妻とチェコ・スロバキアのイプセルが、都合で今朝国に帰ることになった。せっかく親しくなったのに淋しい。空港に向かう三人をみんなで見送る。 午後、市の郊外を走っていたら、何台ものトラックを連ねて、こちらに向かってにぎやかに走ってくる一隊と遭遇した。泥にまみれた顔や手、みんな口々になにか叫びながら手を振っている。なかにはキューバの旗や大きなナタのようなもの(マチェテというのだそうだ)を振っている人もいる。なにかと思ったら、これぞ社会主義キューバのシンボルの一つ、砂糖キビ刈りの”ボルンタリオ”(勤労奉仕)の人達が、今仕事を終えて帰って来たところなのだ。お互いに車を止めて、握手をしたり、挨拶を交わす。トラックのグループを、泥だらけの男や娘たちの姿を、次々と撮影した。キューバに来てから一番張り切って、シャッターを押し続けたような気持ちがする。パプやイプセル達は、こんな写真を撮れないまま帰って気の毒だ。
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5月21日(火)
シエラ・マエストラ山すその学園都市 午前6時、サンティアゴに別れを告げる。暑くて辛いこともあったが、印象の強い町だった。またすごいスピードで突っ走り、シエラ・マエストラ(オリエンテ州南部に連なる2000m弱の山脈)の山すそに新しくできたシエンフェゴス学園に行く。ここでは、小学校か中学くらいの子供達が、全寮制で勉強したり体育に励んだりしている。カストロのような髭をつけた背のひどく高い軍服姿の人が校長さんだということだが、我々にいろいろ説明してくれる態度は非常に優しく和やかで、一寸驚いた。いずれにしてもキューバが、教育に大変な努力を注いでいることは間違いない。バヤモという町で(ここから眺めるシエラ・マエストラの山容は素晴らしい風景だった)カレテラ・セントラル(中央ハイウェー)からそれ、左のほうへ行く道をしばらく走って、夕方、マンサニーユという港町に着く。早速ニュータウンを見学した。夕陽を浴びて子供達が元気に遊んでいたが、その中の一人が日本語で”わからない”などと叫んだので驚いた。きっと、ここは港町なので、だれか日本へ行ったことがある船員にでも教わったのかもしれない。 キューバに着いてから今日で22日。暑さ、食事、習慣の違い等のためか、この数日ひどく疲れる。食欲もなくなってきた。そして、何よりも言葉が通じないことから、みんな、特に案内役をしてくれているキューバのカメラマン、サラス、リボリオ両氏との意思の疎通が不足して、日毎にいらいらが募って来た。 一昨日の夜、とうとう両氏と運転手のプラセンシアを相手に(サラスと運転手は英語がうまい)今まで痛感している疑問、不満を、つたない英語でつぎのように話してみた。
これに対して、三人は「我々は君のことをよく理解している」「言葉は違っていても世界人民の心は共通だ」「我々は友人である」「準備が不足していて、思うようにはいかない」などと繰り返すだけで、私の説明では所詮こちらの思いを理解してもらうことは無理だったようだ。事実、今日マンサニーユに来たのも1956年12月、カストロたちがグランマに乗って上陸したニケロという海岸を見るためだった筈なのに、さっさと中止して、明日の朝は、次の町に向かって出発してしまうのだという。
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5月22日(水)
州都カマグェイ 朝早くマンサニーユを出てバヤモに戻り、再びカレテラ・セントラルをハバナの方角にひた走る。オルギンを通り、午後2時、カマグェイという大きな市に着いた。オリエンテ州の西側の大きな州の州都だ。町並みは美しく、落ち着いているが、明るいハバナ、情熱的なサンティアゴに較べて、なにか暗くて、そっけないような感じがする。聞いてみると、この州は大地主が多く、革命の時も特に保守的な州だったという。革命からまだ三年、美人の女性はとても多いのに、社会主義建設の熱気は、まだこの市まで及んでいないのかもしれない。
夕方、市内をスナップして回るが、余り撮りたいものにぶつからなかった。ホテルもきれいで、食事も美味しかったが、サラス達から、突然明後日、飛行機でハバナへ帰るようI.C.A.P.から連絡があったと知らされ、驚く。 |
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5月23日(木)
牧場、託児所見学 午前中、大きな牧場へ行く。たくさんの牛、高い貯水塔、風車など、アメリカの西部劇の映画そっくりの風景が、そこにあった。
牧童たちの格好も、映画ローハイドを見ているみたいで、椰子の木の下を、鞭を振りかざして牛を追いかけるカウボーイの姿はなかなか勇壮なものだ。こうした牧場なども、すでに国営になっているという。 午後は郊外の耐火レンガを作っている工場の託児所へ行った。可愛い子供達がいっぱいいて楽しかった。ことに、給食風景はにぎやかで、白い子も黒い子も、ほんとうに仲良くしている様子は感動的なものだった。また、移動するときは、保母さんを先頭に、二十人位の小さな子供達が一列になり、前の子供の肩につかまって行進(?)するのが、ものすごく可愛く見える。革命前はこんなにすべての子供達が勉強したり、食べたり、遊んだりすることは出来なかったに違いない。夜になって、サラスから、ハバナ行きの飛行機が満員なので、やはり車での旅を続けることになったと知らせて来た。 |
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5月24日(金)
港町ヌエビタスの工場には日本製の機械や運搬車が 午前、昨日行った耐火レンガ工場の近くのニュータウン(労働者のための新しい団地)を見に行く。そのあとレンガ工場へ回る。余り大きな工場ではないが、それにしてもこの暑さの中で、真っ赤に燃えさかる炉の前で働く労働者の苦労は並大抵なものではなさそうだった。彼らが、しょっちゅう赤い土で出来た水のみを高く差し上げ、15センチも離れた自分の口に、上手に水を受け止めるのが面白かった。いい写真が撮れた。 午後は74キロも離れた北海岸にある新しい港町ヌエビタスという所へ行く。港にはソ連の船が2隻停泊していたが陸から送油管のようなパイプが伸びていて、キューバを援助する石油の陸揚げ港らしい。カマグェイへの帰途、有刺鉄線の工場と、建設中の鉄線工場に寄った。ということは、この辺は新工業地帯になるのかもしれない。 有刺鉄線工場の機械は日本の尼崎の会社製だったのを始め、塗装の機械や運搬車などもみんな日本製でちょっぴり懐かしかった。 今日も腹痛がして、食欲がなく、一日走り回ったわりにはそれほどの成果もなかったような気がして、疲れが激しい。しかも、更に憂うつにさせるのは、22日から、ホテルの同宿者が中国から来た呂厚民(ルー・ホーミン)になったことだ。元来、男同士の同宿というのは、余程仲のいい友人でなければ嫌なことだが、まして性格も習慣も違う人と一緒に寝起きするのは苦痛だ。 最初、中国の人だから筆談も出来ていいかもと思ったのだが、彼らの漢字はすでに略字になってしまっており、余り役に立たず、しかも彼には新華社のハバナ駐在員が通訳としてついて来ていたので、いっそう面倒なことになった。 彼らは、かなり厳しくなっていた中ソ対立(63年の日本ではまだ殆ど明らかにされていなかった)の話を長々と説明し、君は中国とソ連のどちらの側につくのかと、毎晩のように迫るのだ。私は、キューバの国際写真コンクールに入選して招待されて来ただけで、中ソ対立については未だよく解らないし、ましてどっちにつくかなど言える筈がないと答えると、そんなヌエ的な態度は許されないなどと怒り始めるありさまで、これには全く嫌になった。また、キューバ人は軽薄で、嘘つきで、歌ばかり歌っている怠け者だと吐き捨てるように罵倒してやまないことにも我慢がならない。 一方では彼の入選した作品は、朝鮮戦争の時、参戦した人民解放軍が朝鮮人民に見送られて凱旋するシーンの、とてもいい作品だが、数年前にソ連の国際コンテストで金賞を受けたと自慢する。びっくりして、日本では一度入選した作品は、他のコンテストには応募出来ないと言うと、優れた作品は人民の財産であり、何回でも応募出来ると平然と言っているのだから何をかいわんやだった。 同室生活でも身勝手な行動が多く、しかも不潔な感じがして、私の疲労感はますますひどくなる一方だ。早くハバナへ帰りたい。 |
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5月25日(土)
モロンで待望の砂糖キビ刈りに巡り会う 疲れたまま、午前6時、カマグェイを出発。シエゴ・デ・アビラを経て北岸に近いモロンという町に着く。ここで、ついに待望の砂糖キビ刈りに巡り会うことが出来た。キューバといえば砂糖と葉巻という位のことは知って来たのだが、今までサンティアゴで砂糖キビ刈りから帰って来たボルンタリオの人達を撮っただけで、キビ刈りの現場にはぶつからなかった。みんな張り切って、見渡すかぎり続く広々とした砂糖キビ畑に散り、マチェテでバシッ、バシッと太いキビの根元を刈って行く人々や、刈ったキビを集めてトラックに積み込むクレーン車みたいなもの、更にソ連が考案したという、半分自動化したキビ刈り車などを撮りまくる。嬉しくなった。 そのあと、付近の牧場を訪ね、体重1トン以上あるという自慢の巨牛(種牛か)を見る。キューバの牛はセブ牛といって背中にコブのようなものがあり、一見みんな痩せている。餌が不足しているためかと聞いたら、放牧している間は運搬の問題もあってわざと痩せさせておき、食肉にする1、2ヵ月前、うんと食べさせて太らせるのだという。ちなみに、脂みの嫌いな私にとってはキューバの牛肉は実に美味しかった。夕方7時すぎ、ラス・ビジャス州の州都、サンタ・クララに到着。ここは往路、一晩泊まっただけで殆ど素通りしてしまった町だ。例の外壁に弾痕の残ったホテルに入る。夕食後、ナイト・クラブへ行き、にぎやかにダンスに興じている人々を撮った。ダンスにも誘われたが、戦中、戦後のさなかに育った私は、残念ながら見ているしかない。 |
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5月26日(日)
自由時間、サンタ・クララ市内をスナップして歩く 一日自由時間だというのでルー・ホーミンと、市内をスナップして歩く。すごい旧家ふうの邸宅へ行ったり、街で知り合った黒人警官の自宅へ招待されたり(ただニコニコと握手するだけだが)なかなか面白かったが、なにしろ暑くてあまり歩けなかった。4月30日にキューバに来た頃よりも一段とまた暑くなったような気がする。午後は、ちょうど街でやっていた「革命写真展」を見た。革命前の一般的な国民の悲惨な貧困生活、バチスタ独裁政権の残虐な弾圧で逮捕されたり、殺されたりした革命家たち、何故カストロたちが武器をとって立ち上がらなければならなかったか、よく解るような写真展だった。そのあと、また街を歩き、自動小銃を無造作にかついだ若い兵士や、可愛い母子づれの写真などを撮った。 夜は、夕涼みのように(それほど涼しくはないのだが)人々が群れているパルケ・セントラルに行き、我々に好奇心を持って近づいて来る男女学生たちと、身振り手振りを交えながらいろいろおしゃべりして過ごした。
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5月27日(月)
英語やスペイン語が話せたら・・・ 今日もすごい暑さの中を、午前中、新しく建てられた集団住宅、さらにマメイ(竜舌蘭)を原料にした麻袋製造工場などを見学したが、写真的には余り興味をひくものがなかった。むしろ、道の途中にあった古い農家らしい掘っ立て小屋(ここではボイオと言っている)の方が、革命前のキューバを象徴しているようで、気の毒だけれど写真にはなった。
午後、何もなし。ホテルにいると、高校の教師だという人が来て日本の話を聞かせて欲しいと言う。私の英語ではとてもよく説明できないので、ルー・ホーミンについている新華社の人にも手伝ってもらい、彼の質問に対していろいろ説明した。彼は、ぜひ日本へ行ってみたいと熱心に言っていたが、実現すれば素晴らしいことだ。それにしても、英語やスペイン語が話せたらいいなと痛感する。 |
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5月28日(火)
トゥリニダーに残るコロニー風の景色 今日は私の33歳の誕生日だ。朝5時半サンタ・クララに別れを告げ、またまた猛スピードで砂糖キビ畑や、幾つかの町を通りぬけ、7時半シエンフェゴスという大きな市に着いた。ここは南岸(カリブ海)に面した港町で実に美しい町だ。ホテル・ハグワで休憩した後、町を簡単に一周したが、海岸に建っているスペイン風の宮殿のような建物は特に美しい。また、セメンテリオ(共同墓地)も見学したが、ハバナのそれよりは小さいとはいえ、真っ白な大理石で作られたギリシャのパルテノン神殿そっくりの建物や、お堂、墓石等が立ち並ぶ立派さに驚かされた。再び車に乗り、今度は海岸沿いの道を、もと来た方向に引き返すような感じでひた走った。10時半、ようやく、海を見下ろす岡の上にあるトゥリニダー(ド)という、ひどくひなびた町に着いた。地図で見てみると、サンタ・クララからここまで、すごい距離だ。朝からよくこんなに突っ走ったものだ。 トゥリニダーはキューバの中で一番代表的なコロニー(スペインの植民地)風の風景が残っている町だそうで、崩れかけた教会の建物や塔、石畳の狭い道路、そこをロバに乗って行く老人など、これは絵になる!といった町だった。教会の塔に登ったり歩きにくい石畳の道を歩き回って撮影する。余りの明るさと暑さにめまいがする程だ。バンガロー風のホテルで軽い食事をとり、やっと人心地がついたところで、さて今夜はここに泊まるのかと思ったらとんでもない、また車に乗って出発だという。 長い長い道だった。幾つかの町を過ぎ、畑や草原をひた走って、夕暮れのなかを車は進む。赤く染まった雲が美しい。高い椰子の木が窓外を流れて行く。しかし、我々は、みんなうつらうつらと半分眠っていた。夜7時、とうとうバラデロに着く。有名な海水浴場だとか。 |
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5月29日(水)
バラデロの海水浴場を撮影し、ハバナへ 昨夜ここバラデロの大きなホテル、インターナショナルに入ったのだが、あと数日でキューバともお別れかと思うと、なんだか急に淋しくなって、久し振りに妻に長い手紙を書いた。生まれて初めての海外一人旅、もう家を出てから一ヵ月以上にもなる。息子は元気で学校に行っているだろうか、時々息子の夢をみたものだったが。午前中バラデロの海水浴場を撮影する。長く、真っ白な砂浜、七色に輝くエメラルド・グリーンの海、風にそよぐ椰子の木、噂にたがわぬ美しい海岸だが、この日は何故か人影が少なく、絵にならない。 ただ一つの収穫は、渚で小さな子供を愛しげに抱いて立つ父親と、彼らを見つめる妻の黒人親子の映像が撮れたことだ。革命前は、こうした海水浴場には、黒人は立ち入れなかったのだそうで、シャッターを押しながら感無量なものがあった。 午前2時、マタンサス市を通り、海沿いのハイウェイを一路ハバナに向かって走る。昨日までの疲れが嘘のように明るい気分になる。 ハバナに着く直前、急に車はハイウェイをそれて、市の郊外の海岸に並んでいる金持ちの別荘風の建物の一つに入って行った。ここは運転手のプラセンシアの家だという。きれいな奥さんと三人の子供達がにぎやかに出迎えてくれ、美味しいコーヒーをご馳走になったが、この家の立派さにびっくりしてしまった。一階の広いサロンの真ん中には回り階段が二階に延び、半地下になったところには、水路が入り込んでいて、モーターボートが浮かんでいるではないか。 I.C.A.P.の一運転手が、どうしてこんなすごい家に住めるのだろうか? きっとアメリカへ逃げて行ったブルジョアの家だったと思うのだが。 午後5時頃、とうとうホテル・リビエラに着いた。なんだか自分の家に帰りついたような気持ちがしてホッとした。 |
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