リレー・エッセイ
 
いろいろなキューバが見えてくる
 
Vol.1「1963年 キューバ日記 ― 栄光と感動の1カ月」
(最終回/4回連載)
近藤彰利 (写真家)
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5月30日(木)
国際写真コンクール入賞者の授賞式

 終日、自由時間。朝、ロビーで久しぶりに真木、水品、両総評代表に会う。彼等も他の国の代表団と一緒に各地を見学してきたのだという。私と同様真っ黒に日焼けしていた。彼等は別の飛行機で明日帰国するというので手紙等お願いした。
 午前、せっかく遠いキューバまで来たのだから挨拶ぐらいはしなければと、日本大使館へ行った。ところが、応対に出た書記官と思われる人の言い種に呆然としてしまった。「あなたは共産党員でしょう?」「共産党員でなければ、この国に入れる筈がないからね」と頭から冷やかすように言い放ち、私が国際写真コンクールで入選して招待されて来たのだと説明すると、さらに「それは良かったね、しかし、この国はあと一年ももたないですよ。まあ長くても二年ぐらいのものかな?」などと、うそぶいたのだ。私は、正直キューバのことはよく知らない。しかし、わずか一ヵ月の間この国を回っただけでも、この国の人達が四年前の革命を支持し、指導者フィデル・カストロを心から敬愛し、より良い生活を目指して社会主義建設のために、懸命に勉強し、働いていることは理解出来たと思っている。それなのにこの男は、日本を代表して来ている大使館の一員として、この程度の見方しか出来ないのか、そして又、せっかく挨拶に訪れた同国人に対して、よくもこのような失礼な態度がとれたものだ。日本の官僚が常に国民を蔑視していることは知ってはいたし、在外公館の役人が同国人旅行者に不親切だと聞いたこともあったが、これ程ひどいものだとは知らなかった。それでもそのあと会ってくれた矢口大使は比較的に好意的で、私が帰国前にI.C.A.P.に正式に挨拶とお礼をしたいので通訳が必要だというと、大井さんという二世の人を紹介してくれた。
 午後、ホテルのプールで泳いでいると、ビクトルから連絡があり、今晩パラシオ・デ・ベージャス・アルテス(芸術宮殿?)で、今回の国際写真コンクール入賞者の授賞式と写真展があるので出席するようにという。車で案内された場所は、元大統領官邸の近くだったような気がするが、天井の高いきれいな大広間で、我々の作品がパネルにはって展示されていた。
 I.C.A.P.総裁のヒラルド・マソーラ氏の挨拶のあと、手ずからひとりひとりに賞状が渡されたが、彼の温かい握手と親しみのこもった笑顔が、とても印象的だった。横ではビクトルやテレシタが、にこにこしながら拍手している。一ヵ月の疲れもふっとぶような感動をしみじみ味わった。先に帰ったハンガリーのパプ、チェコのイプセルが、この授賞式にいないのが唯一残念だった。
 我々の帰国も6月4日に決まった。ついにカストロの写真は撮れずに帰らなければならないようだ。
 
5月31日(金)
パルタガス煙草工場見学、I.C.A.P本部訪問、市内スナップ

 午前中、カピトリオ(旧国会議事堂)の裏にある(だいぶハバナ市内の地理も解ってきたみたい)パルタガス煙草工場へ行く。キューバの主要産業だけに、四階だての立派な建物で、広々とした各階の部屋では、原料の葉の選別から、手巻き、機械巻き、製品検査、箱詰め、そして箱に様々な美しいレッテルを(葉巻には何十種類もあるとか)はって完成品になるまで、見ていて飽きない。しかも働いている大勢の男女労働者が、実に個性的で、生き生きとしている。中には太い葉巻をくわえたまま、働いている貫禄のあるおばさんなどもいたが、みんな撮影して回る我々に対してとても好意的だった。
 興味深かったのは、各階に小高い放送席のようなものがああり、マイクの前で女の人が、その日の新聞を読んでいることだった。聞けば、煙草工場の労働者は仕事をしている時、手と目は使っているが耳はあいているので、こうして毎日の新聞や、雑誌などを読んでくれるのだそうで、そのために、煙草工場の労働者が一番政治的な意識が高く、いち早く革命に参加したのだという。
 この工場は、創業が1845年、400人の労働者が働いているが、この規模の工場は、市内ほか各地にあって、生産される葉巻は世界中に輸出されており、キューバを毛嫌いしているアメリカのブルジョア達も、この”ハバナ葉巻”をうまく手に入れて大いに喫っているらしい。
 午後、先日大使館で紹介された大井さんと一緒にI.C.A.P.の本部を訪問、彼の通訳で、改めて今回の招待に対する感謝の言葉と、この一ヵ月間に感じた、キューバについての印象、感想などを述べ、併せてこれからの日本とキューバの友好について、いろいろ話し合った。今まで、言葉が出来ないために、ノイローゼみたいにまでなっていたので、この日の話し合いで、胸のつかえが大分とれたような気がする。
 夜、久しぶりに、前に世話になった柳原さんと会い、一緒に夜の市内をスナップして歩く。遊園地の人達なども面白かったが、何よりの収穫は、街の建物の前に立っているグアルディア(警備、歩哨)の女性民兵の雄々しい姿をたくさん撮影出来たことだ。カーキ色の民兵服を着た女性たちの美しいこと、柳原さんと「こんなきれいな人になら撃たれて死んでもいいね」などと、つい冗談が出てしまうほど美人がいて、いい写真が撮れた。
 なんでこんなグアルディアが必要なのかといえば、革命後の四年間、アメリカのC.I.Aや亡命キューバ人が、あらゆる破壊工作を行っているからだという。例えば、夜間、高速ボートで忍び込み、砂糖キビ畑に火をつけたり、町のスーパーに爆弾をしかけたりする。そういえば、我々がここに来てからも中央郵便局で手紙爆弾が爆発して、局員が手を吹き飛ばされたという事件があったと聞いた。
 ホテル・アバナ・リブレでは、15歳の女の子たちの成人のパーティーをやっていた。着飾った少女たちが、大勢でダンスを楽しんでいた。こちらでは、15歳といえば、確かにもう立派な大人だ。気候の暖かさで発育が日本より早いのかもしれない。ただし、その代わり老けるのも、ずっと早いような感じもしないではない。
 
6月1日(土)
モロに登って港や旧市街を撮影、精糖工場を見学

 今日から夏時間になり、時計を一時間進める。
 午前中、港の向こう側のモロに登り、港や旧市街を一望する写真を写した。丘には巨大なキリストの真っ白な像が聳え立ち、その横には、その名どおり燃えるような真っ赤な花をつけたフランボイアンの大木が枝を張っている。ハバナ湾の碧い水をへだてて広がる市街は何とも言えない素晴らしい眺めだ。水際にはスペイン時代の城のような建物が並び、白亜のカピトリオ(旧国会議事堂)を中心に、旧大統領官邸もその美しい姿を見せ、またホテル・アバナ・リブレ、その他の高層ビルは、市の近代化を誇示しているように立ち、さらにその後方には、あのメーデーが行われた革命広場の独立記念塔もくっきり聳えている。ここからはよく見えないが、右手、海岸に沿って市をつつむように長い防波堤(マレコンと呼ばれている)が続き、その内側は10車線以上もある、ゆったりとした道路が走っている。ハバナは、この海岸からなだらかな坂になって広がっていて、短い滞在のなかで憶えたことは、道に迷ったらまっすぐ坂を下ればマレコン通りに出てしまうということだった。
 午後は、ハバナと隣のマタンサス(皆殺し……インディオをか?)州との境に近い大きな精糖工場を見学した。三年前までアメリカのハーシーのものだったというが、現在はカミロ・シェフェンゴス工場と呼ばれている。労働者800人、1日2万袋の白砂糖を精製するキューバ最大の精糖工場だというが、全行程を見学しているうちに、こちらの手足が糖分と熱気で、なんだかべとべとしてきたような気がする。研究室も非常に良く整備され、職員のきびきびとした仕事ぶりも、さすが”砂糖王国キューバ”だなと感嘆させるものだった。
 夜、ロビーで一人の日本人に話しかけられた。アカハタの特派員で佐々木さんといい、年配の、落ち着いた話し方をする、いい人だった。キューバについてのお互いの印象や感想を夜の更けるまで語りあったが、共通点が多く、また、私の方としてもいろいろ参考になることがあった。
 
6月2日(日)
ホテル・リビエラのプールを堪能、夜はI.C.A.Pのお別れ夕食会

 キューバでの生活も終りに近く、今日の昼間はなんのプログラムもないので、一日プールでのんびり過ごすことにした。
 ここホテル・リビエラのプールはとても大きく、5mの飛び込み台もある、きれいなプールだ。中段の3mは平気だったが、5mは頭が少し痛いのですぐやめる。午後からは、昨夜の佐々木さんも来たので一緒に大いに泳いだ。その合間には、用意して来たカメラで水着の美人たちの写真も撮ることができた。我々宿泊客は一日中何時でも、プール行用の専用エレベーターを利用して泳ぎに行くことが出来るわけだが、日曜日には一般市民も利用出来るそうで、今日の混み方もなるほどとうなずけた。
 夜はI.C.A.P.のお別れ夕食会。もうすっかり仲良くなった、キビキビした好青年ビクトル、そのノビアらしい、これまたてきぱきとした可愛いテレシタ、がっしりした女性アジア局長リディアさん、マソーラ総裁もほっとしたように笑っている。我々入選者たちも、みんな真っ黒な顔をして、にこにこと大満足だった。思えば、余りに暑かったり、いらいらしたり、言葉の問題でノイロ−ゼ気味になったり、辛いことも多々あったにせよ、今回のキューバ招待は、忘れられない「栄光と感激の一ヵ月」だったとしみじみ思う。I.C.A.P.のみなさんをはじめ、こんなに親切にしてくれたキューバの人々に、心からの感謝を捧げよう。そして又、一緒に過ごした七人の入選者の人達とも、何時の日か、機会があって再会出来ることを希おう。
 
6月3日(月)
フィデル・カストロがソ連から帰ったので帰国は1日延期、の報

 市内にある、革命前最大で最強だったといわれる旧コロンビア兵営を見学する。一寸した城のような美しい建物で、その奥の一角が独裁者バチスタ大統領の邸宅だったという。精鋭部隊に守られて、国民の悲惨な貧困をよそに、自分だけの栄華を貪っていたのだろう。そこは今、なんと小学校になっており、大勢の可愛い子供達がにぎやかに勉強している。すごく広い食堂で子供達が食事しているさまは、まさに壮観だったが、白い子、黒い子、焦げ茶の子が、ほんとうに仲良く食べていることに、改めて感動した。白人の女の子が年下の黒人の子の食べるのを手伝っている写真は、今度のキューバでの作品の中で、傑作になるに違いない。

 午後再びI.C.A.P.に招かれ、アジア局長のリディアさんから木製の賞杯、何枚かのレコード、数枚の面白いデザインのポスター、I.C.A.P.撮影の我々の写真等々のおみやげをもらう。いい記念になる。
 夜、日本大使館から連絡があり、夕食に招待するとのこと。前回の嫌なことが頭をよぎったが、せっかくの招待なので、お受けした。矢口大使の奥さんが自分であげたというテンプラがとても美味しく、久しぶりの日本の味に、おおいに御馳走になった。また、ヒダノ・ユウサクという日本人の老人がいて、「ヘミングウェイと仲良しだった」と一緒に写った写真をくれて自慢するのも面白かった。国連から派遣されて来ているという水産庁の鈴木氏とも知り合った。
 ホテルに帰ると、フィデル・カストロがソ連から帰ってきたので我々の明日の帰国は一日延期するとの知らせが待っていた。万歳!
 
6月4日(火)
フィデル・カストロの帰国演説を撮影

 ついにキューバでの生活も今日で最後になる。ひどく長かったような、それでいてアッという間に過ぎてしまった、一ヵ月と四日だった。一日がかりで帰国の準備をする。この二、三日の間に、残ったフィルムは世話になったサラスやリボリオ、そのほかの人達に分けてあげてしまった。結局、持って来たフィルムの半分ちょっとしか使わなかったということで、如何に今度の撮影が能率が悪かったか、また自分の能力が足りなかったか、反省させられる。その反面、生まれて初めて日本の外、それも地球の裏側まで一人で来て、言葉も解らない外国人たちにまじって、一ヵ月も生活出来たことには一種の満足感もある。初めて聞いたスペイン語は、母音が多く、英語よりもずっと日本人にはなじみ易いような気がする。”コモ エスタ ウステ?(ごきげんいかが?)” ”ムイ ビエン グラシアス(とてもいいですよ ありがとう)”なんて、紙にカタカナで書いて読んでも、通じるくらいだった。日本に帰ったら、スペイン語の勉強をしてみよう。
 荷物の整理も大体終わり、住み慣れたホテルの部屋を見回す。大きな広々とした部屋、きれいな洗面台とトイレ、バス、ハバナでも一流だというこんな立派なホテルに、たった一人で、しかも食事もなにも無料で一ヵ月も生活出来たなんて、全く有り難いことではないか。
 夕食を早めにすませ、8時ころ例の、おしりのピンとはったキャデラックでテレビ局へ案内される。スタジオに入り、しばらくすると、あの、日本にまで名を知られた、コマンダンテ(少佐)・フィデル・カストロが入って来た。大きい!がっしりとした体格はカーキ色の戦闘服に包まれ、顔の下半分が隠れるような、有名なカストロひげが四年前までの厳しかった革命戦の名残をしのばせているようだ。やや薄暗い観客席には、チェ・ゲバラをはじめ、キューバ革命の指導者たちと思われる人達がずらりと並んでフィデルを見つめている。
 8時30分、彼が演壇に座り、マイクをちょっといじってから(これが彼のくせだとか)やがて話し始めたが、彼の「ソ連での一ヵ月の活動の報告、世界の社会主義運動の問題点、これからのキューバの社会主義建設」等々(言葉の解らないなりの想像だが)の話は、なんと夜中の12時20分まで続いた。彼のよく響く声は、独特のやや哀調を帯びた感じで、時に大きく高く、時にはせつせつと諭すように聞こえ、また、鉛筆を持った片手を縦横に振ったり、両手を差し上げたりする動作も、大いに説得力を高めているようで、四時間たっても、聴衆を少しも飽きさせない。おそらくキューバ中の人々が、耳と目をそばだててこのテレビとラジオの放送を見つめていたに違いない。
 この間、私は、出来るだけ目立たないように注意を払いながらも、この一世一代の好機を逃してなるものかとモノクロとカラーでフィデルの一挙一動を撮り続け、また演説の合間、合間に拍手を送っているゲバラをはじめ指導者たちの姿を撮って歩いた。チェ・ゲバラはとても恥ずかしがりやみたいで、アップを撮る私に「それくらいで、もういいだろ」とでも言うように、笑いながら手を振っていた。
 ようやく放送が終わると、立ち上がったフィデルの周りに、ドルティコス大統領をはじめ主だった人々が集まり、次々に彼と握手をして、ソ連への長い旅と今夜の長い放送をねぎらっているようだった。特に最後に握手したゲバラとは、顔を寄せあって、何事か話しこんでいたのが非常に印象的で、そのシーンの写真はことに力が入った。

 あとでハッと気づいたことだが、こんなにスタジオの中をこまめに動き回って撮影していたのは私一人だったようで、ことによると、取材について何らかの注意が事前にあったのかもしれないが、なまじ言葉が解らないために、しかたなし(私にとっては幸運にも)自由に撮影するのを見逃してくれたのかもしれない。
 キューバに来てからの、恐らく最大の収穫に興奮しながらホテルに帰ると、数日前から記録映画の取材に来ている日本電波ニュースの大小島さんと藤井さんに会ったので、もう殆ど諦めていたフィデルの写真が今夜とうとう撮れた話をすると、とても喜んでくれて、ルーム・サービスの食事をとってくれ、三人で遅くまであれこれとキューバの話に花を咲かせた。
 
6月5日(水)
Hasta la Vista! Querida CUBA!

 一ヵ月もの間、いわば住み慣れたホテル・リビエラに別れを告げ、ビクトル氏らI.C.A.P.の人達に見送られてホセ・マルティ国際空港に行く。
 つい先日の4月30日、めくるめく太陽の光を真っ向から浴びて、頭がくらくらしながらキューバの大地を踏みしめたのだったが、今日は更に一段と暑くなったような気がする。
 世話になった人達と固い握手を交わして再びあのブリタニア機に乗りこむ。今度は、来た時と違って全くの一人旅、また一週間かけて日本まで帰らなければならない。
 飛行機の小さな窓からキューバの赤い大地を眺めていると、この長かったようで短かかった一ヵ月間の様々な出来ごとが、次々と思い出されて来る。
 ここに来る前、新聞や本で、キューバ革命のこと、カストロ首相のこと、世界的な産物の砂糖と葉巻のこと、そして1962年の世界を震かんさせたキューバ危機のことなど、一応は知識として知っては来た。しかし、実際にこうしてキューバに来て、わずか一ヵ月にしかならないが、この国の実に親切でひとなつっこい人々と毎日一緒に暮らし、美しいトロピカルの風景を見、美味しい空気を吸ってみて、今更ながら地球のちょうど裏側からこの国に来ることが出来たことが、どんなに幸せだったか実感出来たように思う。
 しかし、それらの全てにも増して、キューバの人々がなぜフィデル・カストロを先頭に2万人もの血を流してまでも革命をやらなければならなかったのか、そして革命に成功して4年、貧富の差と人種の差別、文盲を一掃し、更に全ての教育、医療を無料にするという”正義の社会”を、アメリカの様々な妨害に屈せず、ひたむきに建設しようとして戦っているキューバ人民の姿を直接見ることが出来たことは、本当に貴重な体験だった。
 それにしても、この一ヵ月、写真家のサラス氏、リボリオ氏、I.C.A.P.の人達に案内されながらキューバ全国6つの州をすべて周り、そこここで出会った大勢の人々の顔が次々と浮かぶ。この人達のことを私は決して忘れることはないだろう。
 日本を発つ前、絶対に撮って来ようと思っていたカストロ首相の写真も、最後の夜、ついに撮ることが出来た。そして、メーデーの日、遠くでしか撮れなかったチェ・ゲバラもすぐ近くで撮ることが出来た。すごい幸運だった。  やがて、飛行機はぬけるような真っ青な空に飛びたった。
Hasta la Vista! Querida CUBA!
(また逢う日まで! 愛するキューバ!)
(終)

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