| いろいろなキューバが見えてくる | |
| 都合により、その2はしばらくお待ち下さい。 旅行代理店トラベルボデギータは、ニューヨーク・世界貿易センタービル等爆破事件の影響を受けたお客様の滞在等に関する処理で繁忙をきわめ、清野さんに原稿を執筆いただくお時間がないため、「その2」の掲載はしばらく延期いたします。 |
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| Vol.6 「日本とキューバとの架け橋に」
その1 (有)トラベルボデギータ取締役 清野 史郎
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ベルリンの壁崩壊後混迷するキューバ経済のなか、国の威信をかけて行われた大会。キューバが模範としてきた東欧諸国の計画経済時代の遺産が常夏の国にありながら妙に冷たい。スポーツ大国を代表する箱物だが、キューバ臭さがみじんも感じられない。 そして突然陸橋を境に坂を下り始め緑の丘が左に現れ、海が消える。遠く右に公団が建ち並ぶ。急勾配の坂の麓に二つ目の陸橋が見えてくる。それを右に上り陸橋をUターンすると右手に川をはさんでアラマル行きとコヒーマル行きに道が二手に分れる。 コヒーマルはかつて文豪ヘミングウェイが釣りに出かけていた港町、今でもキューバを愛した冒険家の痕跡を残す町として外国人観光客を乗せたバスが狭い坂道を往来する。手前のアラマル行きの道からは対岸の坂道の頂上付近にカストロの家のひとつと言われた一軒家が見える。子供の頃何度か確かめに行ったが残念ながら会うことはできなかった。 やがて現れる町がアラマル。海風にさらされた青、赤、黄色と箱型の30年を経た公団が乱立している。キューバ人を乗せたラクダバスが行き交う道を進むと突然静かな住宅街に行き当たる。別名LAS CASITAS DE LOS RUSOS(ロシア人の小さな家)。 平屋建ての家が立ち並ぶこの住宅街に移り住んだのは1965年。キューバに来てから1年がたった頃。それまで住んでいたハバナの中心地にあるCALLE26のNUEVO VEDADOに比べ、美しいキューバの自然に囲まれたのどかな住宅街。その頃は回りの公団など無く、隔離されたひとつの村のようだった。 家の近くにはタバコ一箱で馬に乗せてくれる牧場があり物々交換が何であるかを教えられ、やがて二箱で3回乗せてもらうことに成功。そんなアラマルの周りには限りなく遠くまで草原が広がっていた。空を見上げると動物の死骸を狙う禿げ鷹が獲物を追って飛来していて、着地点を捜して近寄ると悪臭漂う牛の死骸を何度か発見したことも。 カリブ海も徒歩10分の所に。長い針の真っ黒なウニに埋め尽くされた海底を、スニーカーで防御しながら毎日のように行っていた。ウツボやサメの襲来のたびに慌てて海から出てくる真っ赤に焼け爛れただぶだぶの脂肪肝体形をしたロシアのオバタリアンたち、テレビの動物係のドキュメンタリーで逃げ惑う象アザラシを見るたびに思い出してしまう。 当時のアラマルは東欧の人たちのゲートと化していた。技術援助なのかゴリ押しの技術供与が名目だったのか、厳しい冬を逃れて常夏の楽園でぐったりとしに白熊の群れを集めた動物園状態。 ロシア人学校、チェコ人学校、東ドイツ人学校があったり、一見国際色豊かな雰囲気が漂っていたが、大人同士はそれぞれのコミュニティで鎖国状態。他の国の人たちとは形式ばった交流しかなかったようだ。しかし子供の世界は別、あらゆる言語が飛び交う変なエスペラント語がわれわれのコミュニュケーション方法。 ほんの少数ではあったが自由陣営諸国のマイノリティ等もこの小さな村の住民となっていた。フランス人、イタリア人、スイス人、アメリカ人。決まりきったように戦争ごっこのたびにワルシャワ条約機構軍に対しNATO軍を構成、我一人取り残されないよう同盟国に加担。することと言ったらアーモンドの実の投げ合いか、近くにあった幼稚園の陣地取りぐらい。そして多国籍軍の戦争に興じている間、少数派であったキューバ人は多国籍の金髪美人に寄り添いイチャついていた。彼らキューバ人が唯一の勝者だったのかも。そんなある日、我々の第3次世界大戦ごっこが出来なくなってしまった。突然ワルシャワ条約機構が分裂。チェコ人とロシア人がその日以来犬猿の仲に!そう、プラハの春が子供の世界に影響を及ぼす事に.. 今はもちろん当時でも日本人学校があるわけがなく、僕は妹と初恋のみちよちゃんとキューバ人小学校に通っていた。マイノリティの外国人もこのキューバ人学校に通い、キューバの歴史を徹底的に教え込まれ、国語のスペイン語を普通に習っていた。 キューバのために戦って死ぬことが最大の喜びと思えた時代。3年生の時には何故だか生徒会長を校長先生の命令でやらされていた。厳しい顔をした、背の高いやせた女の校長先生だったが、怖いと思いながら感謝していた。皆の前に立つことで、人より革命精神が旺盛であることを証明してみせた。朝礼ではキューバ国旗を持つ役目を仰せつかり、ヒーロー気分を満喫。 当時から配給制を強いてきたキューバでクリスマスに買えるおもちゃは一人あたり二つまでで、親に強請ったのはベトナムの解放民族戦線のコスチューム。鉄砲に青い上下の服に三角笠。アジア人である筈の私にとってベトナム人に見えることは最大の誇り。友達の両親に連れて行かれたテレビの子供番組でU.S.Aのマークが入った模型飛行機をボールで倒すゲームがあってそれに出場。見事優勝して司会者にベトナム人と同じ心を持ったアジア人と紹介され、本当のヒーローになった気分で興奮して寝付けなかった。 ミサイル危機まもない当時、戦時体制に近い緊張感が僕らが住む町にも漂っていた。夜になると海岸線では100mおきに民兵が配置され帝国アメリカの攻撃を警戒、民兵が訓練をするときの銃声が海岸線に響き渡り、日々の生活の中で日常的に繰り返されていた。自分もそのうち銃を持たせてもらえるものと思っていた。学校の遠足ではキューバ軍の基地に行って戦車に乗せてもらったりと革命家になるための準備を着々と進めたはずだが。
思い出の中を探るとその日は曇りだったような気がする。思い込みかもしれないが、寒かった。 急ぐことも無く、朝礼に遅れてきた校長先生が涙目でスピーチを始めた。溜息混じりに言葉を選びながら、時々めがねの下からハンカチで濡れた目を拭いていた。話が進むにつれ、他の先生や上級生から泣き声が聞こえてくる。 最初は何を伝えようとしていたのか理解できずにいた。当時両親の通訳をしていたぐらいだから、同年齢のキューバ人と同じぐらいスペイン語が理解できていたはずだが。 やがて、他の国で誰かが死んだことを理解し、世界革命のため戦った英雄であること。そしてその名が告げられた。 チェ・ゲバラの死を伝える悲しい報せだった。 僕はその時にキューバの国旗に無意識に接吻をして帝国主義に復讐を誓った。 7歳の革命家が誕生した日。 (続く→第2回)
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