リレー・エッセイ
 
いろいろなキューバが見えてくる
 
Vol.6 「日本とキューバとの架け橋に」 その3

音楽とダンス

(有)トラベルボデギータ取締役 清野 史郎
 
キューバの小学生(98年3月撮影)
 ドロレスという女の子が好きだった。当時流行っていた柔道をやる金髪で青い目をした女の子。小学校5年の初デートで日本のアニメ映画『長靴を履いた猫』を観に行って、彼女の手を握りながら、登場する猫たちのリアルな動きと次々に変わる場面のスピード感に度胆を抜かれた。
 それまで50年代のディズニー・アニメしか観たことがなかった為なのか衝撃的だったことを覚えている。口に出さなかったが、その日はちょっとばかし日本人である事を誇りに思えた。
 キューバ滞在中2度ほど日本に夏休みを利用して帰っていたが,実際日本のことはあまり知らなかったし、日本語も話せなかった。両親は僕等に日本語で話しかけていたけど、答えは全てキューバ訛りのスペイン語。

 キューバに行ったのは東京オリンピックの年、1964年の春。ミサイル危機の半年後のかなり緊張した時期。何故そんな国に行ったのか父親に聞いたことはなかったけど、よくもそんな戦争状態の国に行ったものだと今思うと怖くなってしまう。
 国籍不明の飛行機が砂糖きび畑を焼き払う目的で爆弾を落下させたり、反革命分子によるサボタージュで爆弾騒ぎがニュースのトップになっていた頃。キューバへ行く為、途中経由するメキシコでは皆CIAのチェックを受け、われら家族も仲良く並んで写真を取られていた。CIA本部に子供の頃の写真がファイルになって今まだ残っているかもしれない。

カーニバル・チーム遠征で一緒に踊った国立民俗舞踊団
(98年3月撮影)
 それでも僕にとっては1972年にスペイン領のカナリア諸島に移り住むまでの8年間、キューバは居心地の良い故郷になっていた。
 そう言えば、その後残念ながらドロレスには会った事がない。最近たまたますれ違った同級生によると、30年も経つというのに相変わらず美しさを保っていると言う。キューバ人女性は年を取ると皆ぶくぶくに太り始めるが、彼女はまだイケルゼとはしゃいでいた。
 熱くて、長いハバナの夏休みのメイン・エベントは、やはりカーニバル。カトリック教徒が多い国としては珍しく7月の後半に行われる。他の国では2月に行われるが、砂糖きびの収穫時期と重なる為、いつしか7月に行われるようになった。宗教色の強い謝肉祭が原点だが、閑散期に当たるこの時期に、黒人奴隷達のあり余っているエネルギーを発散させる為に行われるようになった。
 その為なのか、音楽自体はアフリカ色が強い。大小の太鼓が奏でるコンガと言うリズムに合わせて、行列を組んでチームごとに踊り歩く。ハバナには数十のカーニバル・チームがあり、規模の大きなチームは必ず山車もある。期間中ハバナのあらゆる場所から大音量と共に音楽が聞こえてくる。特設ステージでは有名バンドがライブを展開していた。国際政治の緊迫した状況とはまるで違う世界にいるかのようだった。
 最近になって、ハバナの場合3週間の間、週末だけ行われるようになったが、その頃は10日間ほど連夜、朝までハバナっ子達は踊りまくっていた。学校の夏休みが始まる頃に合わせてカーニバルが始まっていたこともあって、期末試験の最中でのあせる様子もなく、休み時間になると教室ではみんな踊りの練習や机を太鼓代わりに練習をしていた。放課後は皆学校の前の通りに出て掛け声にあわせて踊っていた。
 キューバ人にとって音楽と踊りは生活の一部。年に一度配給で買えるおもちゃの一番人気が日本製の小さなドラムだった。学校のダンス・パーティでそのドラムをラジオから流れる音楽に合わせて叩いていた下級生がいたのを覚えている。もちろんおもちゃのドラムだったからたいして大きな音が出ていたわけではないが,そのリズムに合わせてペアーになってみんな踊り狂っていた。先生までが、ミニ・スカートを履いているのにも関わらずそれを忘れて下着が見えるのも気にしない様子で踊っていた。
 キューバ人は実に飽きっぽい性格をしている。聞くだけのコンサートでは一時間と持たないが、ダンス音楽が鳴り始めると永遠に踊っている。とにかくリズミカルな音楽が大好きな国民。

ソンを躍るペア(98年3月撮影)
 面白いデータがある、1827年当時のハバナに住む職を持つ白人男性16,520人中プロのミュージシャンは44人、そして6,754人の自由となった黒人の場合ミュージシャンは49人もいた。人種差別が強い時代に自由黒人が選べることの出来る仕事は限られていたと言う事もあったが、音楽をやる黒人が多かった。そんな事からもキューバ音楽はアフリカ色が強い。
 キューバに最初に連れて来られた黒人達はどのようにして来たのかは分からないが、1530年頃に1,000人を超える黒人が住んでいた。確かに奴隷として連れて来られたが、砂糖産業の繁栄を迎えるその後の時代に比べまだまだ彼らの暮らしぶりもそれほどひどいものではなかったらしい。
 スペインが統治を始めたかなり早い頃から自由黒人がいて、年々のその数も増加していった。1780年には既に2万人を超える自由黒人がキューバ全土にいたことになっていたからかなりの数だ。カトリック教会もそんな黒人達への布教を目的として、黒人達に教会で音楽をやらせて人集めをしていたらしい。

キューバに伝わる奴隷達の踊り(98年3月撮影)
 世界中に知られているキューバ生まれのダンス音楽は数多くある。日本でも知られているハバネラ、チャチャチャ、マンボ、ルンバ、ダンソン、そして最近流行っているサルサなどはキューバ革命後アメリカのクラブへ出稼ぎに行けなくなったキューバ人に代わってニューヨークに住むラティーノス達がキューバのソンという音楽を基本にブルースやロック、ジャズの音楽の要素を取り入れて始まった。しかしリズム、踊り方に関してはソンそのもの。皮肉にもサルサはキューバ革命の産物である。 
 先住民であったインディオ達の音楽はマラカスと言う楽器でしか残っていない。もともとこの地を植民地にしたスペインではヨーロッパの中でも最初にパーカッションが伝わったとされている。既にスペイン音楽はアフリカの影響を受けていた。要するにキューバにやって来たスペイン人、特にアンダルシアやエストレマドゥラ出身者や、アフリカの象牙海岸辺りから連れて来られたヨルバ族中心の黒人達もみんな音楽好きで踊り好きだった。
 1791年にハイチで暴動が起こり多くのフランス系移民がキューバの東部に奴隷達を引き連れて逃げてきた。彼らはフランスの宮廷音楽とブードゥ教の影響を受けた黒人音楽を持ち込んだ。その後のキューバダンスに大きな影響を及ぼす事になる。

 確かにアメリカ大陸にやって来たダンスはヨーロッパで流行っていたそのものだったと言えるが、キューバの港々で黒人達や混血と混ざって、踊りのテンポや体の動き、表現方法が変化しエキゾチックな踊りとなって本土に逆輸入され、それがまたアメリカ大陸の他の港へと伝わって変化。キューバ生まれのハバネラとアルゼンチンのタンゴの関係がそこにある。
 カトリックの影響のもと、ハメをはずす事の出来なかったヨーロッパ人が、戒律のゆるい新大陸では露骨な誘惑のダンスにのめり込んでいった。
(C)Photo by Seino Shiro (→続く
スタジオ・ボデギータ 恵比寿スタジオ・三軒茶屋スタジオ
★キューバ人の講師を中心にサルサ・レッスン、ルンバ、キューバン・フォルクローレ、タンゴ,フラメンコのクラスが行われている。
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