| いろいろなキューバが見えてくる | |
| Vol.7 キューバの現在−あれこれ |
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| 神奈川大学助教授 後藤 政子 | |
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| 2002年1月1日はキューバ革命43周年記念日である。43年前の1959年1月1日午前3時15分、バティスタ大統領を乗せたアエロビーアスQ機がハバナのコルンビア軍事基地からマイアミに向けて飛び立った。革命勝利の瞬間である。2年間にわたり激しいゲリラ戦を展開してきた反乱軍にとってあっけない幕切れであった。だが、サンティアゴ・デ・クーバでこの報を受けたフィデル・カストロは直ちに反乱軍放送「ラジオ・レベルデ」を通じ全国にゼネストを呼びかけた。独裁派将校によるクーデターを回避するためである。こうしてまずサンタクララを制したチェ・ゲバラとカミロ・シエンフエゴスが1月2日に、ついでフィデル・カストロが1月8日にハバナ入城を果たし、キューバは新しい段階に入った。 キューバでは例年は年末年始の休日は元旦だけである。しかし、今年は大晦日も特別に休みとなった。ハリケーン・ミシェルによる被害の復旧作業が大変だったので国民に骨休めをさせたいという政府の粋な計らいのためであった。30日の日曜日とあわせると3連休になり、さらに隔週の土曜日が休みなので4連休という人もある。しかも25日のクリスマスも休日となったために、まさにゴールデンウイークとなった。もっとも糖業部門の労働者は除外された。12月末から4月まではサトウキビの収穫期にあたり、全国のサトウキビ農場や製糖所はフル回転するからである。
被害がもっとも大きかったのはニカラグアである。ここは世界の最貧国に含まれる国であり、犠牲者もほとんどが貧しい人々であった。神様や自然ですら貧困層を「差別」するということであろうか。 だが、被害が拡大したのは90年代に中米で積極的に進められた「構造調整政策」のためである。たとえば泥流の下に埋まり、20世紀のポンペイとなったポスルテガのラス・カシタスの町では、犠牲になったのは対外経済開放政策によって輸出向けの果実や綿花栽培が広がるとともに土地を追われ、火山の斜面に移り住んだ貧しい農民たちであった。ガスや灯油が買えず、木を切って薪としたため山は裸になっていた。大雨になればひとたまりもないことはわかっていたが、他に住むところはなかった。これはラス・カシタスに限らず、ニカラグア全国、中米全体についても言えることだ。 ニカラグアではまた、被災者の救助活動はほとんど行われなかった。政権を握っていた極右政党の大統領にやる気がなかっただけではない。防災システムが機能しなかった。国の防災予算は「非生産的支出」として大幅にカットされ、防災機関は縮小ないしは廃止されていた。警察の予算も3分の1に減らされ、規模も装備も乏しく、動きがとれなかった。救助用ヘリコプターは全国にたった4機しかなく、洪水の濁流が渦巻くなか、屋根の上で助けを求める多くの人々を手を拱いて見ているほかになかった。 「構造調整政策」が貧困層の膨張を招くことはすでによく知られていることだが、それは天災にたいして脆弱な国家体制や、自然による「階級差別」構造をも創りだしていたのである。 キューバを襲ったハリケーン・ミシェルも同じく最大瞬間風速およそ60メートルに達する超大型であったが、「ミッチ」の場合とは異なり上陸後も勢力はほとんど衰えなかった。ハリケーン接近とともに直ちに警戒態勢がとられ、住民の避難誘導が行われた。総人口1100万人の国で避難民は300万人にも達した。残念ながら建物の崩壊で下敷きになったりして死者が5人出たが、中米の場合と比べればきわめて少ない。実はハリケーン・ミッチの1週間前にもキューバにもハリケーン・ジョーンズが上陸していたのだが、このときの死者は3人であった。 今回も超大型ハリケーンということで、農作物や建造物の被害は甚大であり、とくに収穫期を目前に控えていたサトウキビが倒れてしまったことは、砂糖輸出への経済的依存度はまだまだ高いだけに深刻な問題である。貿易センター事件の余波で観光客が激減していたところでもあり、キューバ経済にとってはダブルパンチである。しかし、政府と国民が一丸となって復旧作業が急ピッチで進められ、国民生活も通常の状態に復帰しつつある。ハリケーンの直撃を受けたバラデロ海岸に外国人観光客が戻り始めていることは朗報であろう。12月に開かれた国会でも2002年度には住宅の復旧や流された家具の補充のための生産などに重点をおく方針が打ち出されている。 ハリケーンははからずも「革命とは何か」を示すことになったといってよい。
しかし、21世紀第2年目を迎えた今、新自由主義経済政策の矛盾を一手にひきうけさせられ、自然にすら差別されているラテンアメリカ諸国の貧困層にとって、キューバは依然としてインスピレーションを刺激する存在である。それはキューバ革命が社会主義革命というよりも、弱者のための革命であり、この基本理念は59年の革命成功以来、ずっと失われていないからである。これはカストロ議長が崇拝し、またキューバ革命の思想的基盤といわれるホセ・マルティの思想に基づくものだが、それはさておき、ソ連消滅による経済危機対策においてもこの方針は貫かれた。 カストロ議長はソ連消滅による経済危機について、「革命以来もっとも深刻な危機」であると語っている。それほど危機は深刻なものであったといえるが、しかし、これにたいしキューバは米国の経済封鎖強化や世界での孤立の危険を賭してもあえて、他のラテンアメリカ諸国のような新自由主義経済政策をとらなかった。これは「国民を路頭に迷わせない」、「弱者へのしわ寄せによって経済危機を克服しない」という原則にもとづくものであった。 その結果、もっとも物質的に厳しい状態にあった90年代半ばにも国民の食糧確保に最大限の力が注がれ、国民は飢えることがなかった。このとき、国民は一人あたり1780カロリー摂取していたという統計がある。また政府が自慢するように、厳しい経済状況のなかでも閉鎖された学校は一校もなく、医療の無料制度も維持された。観光開発を軸に経済回復を図る一方で、国営企業の閉鎖が不可避になると、自営業の認可を拡大したり、革命以来はじめて個人に土地を分与して自営農を形成して、リストラ労働者の受け皿とした。 90年代にいわゆる「経済自由化」が大幅に進んだとはいえ、現在のキューバの経済体制は部分的に市場経済化をとりいれた社会主義経済体制といってよいであろう。外資の積極的な導入が図られているとはいっても、国家の統制のもとにおかれており、また、市場経済化の重点は国営企業の民営化ではなく、独立採算制度への移行におかれている。他のラテンアメリカ諸国では新自由主義経済体制のもとでまったく民族国家の経済的自立性が失われており、キューバとしてはその轍を踏むことはできないからである。こうした体制のもとで経済は94年から回復過程にはいり、ある政府の経済政策顧問が言うように、現在では「革命後初めて確固たる経済発展の基盤が形成された。あとは経済成長を待つのみ」というところにまで到達した。
続く→第2回
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