リレー・エッセイ
 
いろいろなキューバが見えてくる
 
Vol.7 キューバの現在−あれこれ

その3 アルカイダ「捕虜」のグアンタナモ移送について考える

神奈川大学助教授 後藤 政子
 
キューバ地図
 
 キューバのグアンタナモにある米国の海軍基地へアルカイダの「捕虜」が移送されることが報道されて以来、「米国に敵対しているはずのキューバ政府がなぜ反対しないのか?」というとまどいが広がっている。これは日本だけではないようで、世界各国の報道陣がハバナやグアンタナモに押し寄せ、フィデル・カストロ議長やラウル・カストロ国防相ら指導者たちを質問攻めにしている。
 この問題を考える場合におさえておかなければないことは4点ある。まず第1に、グアンタナモ基地はキューバにあるとはいえ、事実上キューバのものではなく、中で何が起ころうとキューバ政府としてはまったく何もできない、ということである。第2に、キューバにとってグアンタナモ基地は金網を隔てた「一寸先」に敵が存在するということであり、革命以来、さまざまな攻撃や挑発が中からなされてきた。しかし、挑発に応えれば武力侵攻に発展する恐れは十分にあり、そのためにじっと耐えてきたということである。第3にキューバは9月11日の貿易センタービル事件以来、すべてのテロに反対するという立場を維持していること、そして第4にキューバと米国の関係は今、微妙な状態にあること、である。

「一寸先の敵」
グアンタナモ基地
グアンタナモ基地
 なぜ、キューバには不倶戴天の敵である米国の基地が存在するのか。これを知るには少し歴史をさかのぼらなければならない。
 キューバはちょうど100年前の1902年に独立している。米国の占領体制を解かれ、共和国となったのだが、これは今、「えせ共和国」と呼ばれている。
 スペインの最後の植民地であるキューバで最初に独立戦争が起きたのは他のラテンアメリカ諸国と比べ半世紀も遅れた1868年である。これは10年間続いたが、独立は実現しなかった。その後、1895年に「独立の父」といわれるホセ・マルティの指導のもとに第二次独立戦争が開始された。マルティはキューバ島上陸後まもなく戦死するが、独立軍がスペイン軍をあと一歩というところまで追い詰めた、1898年2月、ハバナ湾に停泊していた米国の軍艦「メイン号」が「なぞの爆発事件」を起こしたのを契機に米国が軍事介入した。こうして1898年12月、キューバ独立軍の頭越しにスペイン・米国の間でパリ和平条約が結ばれ、キューバは米国の占領下におかれた。
 1902年の独立を前に、キューバでは制憲議会選挙が行われ、共和国憲法の制定作業が始まった。ところが、このとき米国政府が憲法に付帯事項として8項目を付け加えることを要求した。これは提案者の上院議員の名前を取り「プラット修正条項」 といわれているが、米国はこれを受け入れない限り独立は認めないとしたため、キューバ側はとにかく独立を実現することが肝心であるとして最終的に受け入れ、1902年5月、キューバは独立した。
 プラット修正条項は8項目から成るが、たとえば、キューバの独立が危ぶまれたり、自由や民主主義が危険にさらされたときには「米国は干渉できる」という規定がもりこまれるなど、保守派でも認められないような驚くべき内容のものである。軍事基地についても、諸外国にたいしては与えてはならないとしながら、米国には認めることが規定されていた。当時のセオドア・ルーズベルトの対ラテンアメリカ政策である「棍棒政策」の典型と言われるのもそのためである。
 プラット修正は1903年5月に「キューバ・米国関係に関する恒久条約」となり、軍事基地はグアンタナモとバイーア・オンダに設置されることになった。その後、フランクリン・ルーズベルトの「善隣政策」のもとでプラット修正は廃止され、34年には新たな恒久条約が結ばれるが、バイーア・オンダの基地建設は放棄されたものの、グアンタナモ基地についてはプラット修正の規定がそのまま残された。恒久条約には「米国が放棄しない限り、または両国が変更に合意しない限り、基地は維持される」という条項があるため、基地返還は米国の同意がなければ実現できない。首都のハバナ市とマイアミのキーウェストまではわずか90マイル、160キロ。その距離の近さのために、キューバはスペインからの独立後もその事実上の植民地となってきたが、革命後も「一寸先の敵」に悩まされつづけることになった。しかし、基地周辺の事件はどんな些細なことであっても軍事侵攻の口実となり得る。そのような事態になれば革命そのものが存亡の危機にさらされる。そのため、キューバ政府は、基地返還は権利であり原則の問題であるとしながらも、不測の事態を避けることを優先課題としてきた。
 グアンタナモ基地はキューバ東部のグアンタナモ州にある。グアンタナモ州はもともとはオリエンテ州の一部だったが、革命後、75年の行政改革で分割された。基地の面積は11.760ヘクタール。南部は海に面し、陸地部分の周囲はおよそ34キロ。基地の使用料は年間4.085ドル。1ドル130円として53万1050円、1ヘクタールにつき37.4セント(同48円62銭)である。毎年、「キューバ共和国財務官」宛ての小切手が送られてくるが、このような官職はすでに存在しないうえに、キューバ政府としては「基本的ディグニティ」の問題として受け取っていないという。ちなみに、基地で働くキューバ人はかつては3000人ほどいたが、今では10人にすぎない。

グアンタナモ基地周辺では緊張緩和
 グアンタナモ基地周辺では基地内部からキューバの哨兵にたいする発砲事件など緊張状態が続いていたが、1994年のいわゆる「バルセーロ」事件、つまり、手作りのいかだなどに乗っておよそ12万人にものぼる難民が米国に脱出した大量難民流出事件のあとから情勢に変化が見え始めた。このときには当時のクリントン政権との間で話し合いが実現し、移民協定が結ばれ、米国は難民を送還し、キューバは難民の脱出を阻止することを約束した。米国は他のラテンアメリカ諸国の移民には厳しい取り締まりを行っているが、キューバ難民については無条件に受け入れ、1年と1日経れば自動的に永住権を与えていた。それが難民流出に拍車をかけていたのだが、この移民協定によって革命以来、対立を続けてきた両国の関係に変化が生じたことになる。
 このとき、米国は一部の難民をグアンタナモ基地に移送した。そのため、基地では米国への移住を求める難民の暴動が起きたことなども伝えられているが、その一方で、キューバに戻ろうとする者もでた。一方、逆にキューバ側から基地内に駆け込もうとする者もあった。しかし、周囲は地雷原となっており、脱出者を保護しようとして、キューバ兵士の身が危険にさらされたこともあった。それだけではなかった。大雨と洪水のために地雷や標識が流されてしまい、非常に危険な状態になった。そこで、互いに情報を交換する必要があるということになり、基地の内と外をつなぐ「ホット・ライン」が設けられた。
 その後、しばらくすると米国側はキューバに銃口を向けていた戦車を撤去した。これに応じてキューバ側も基地に向けていた戦車や対空砲などを引き揚げた。また、基地内の滑走路に着陸する際に米軍機が風を避けるために、わずかながらキューバ領空を通過することも許可された。ラウル・カストロ国防相のいうように「最小限の協力関係」が成立したことになる。もっとも「ホット・ライン」は基地内部と、キューバ軍のグアンタナモ地区と東部軍との間に限られている。
 変化はこれだけではなかった。99年、米国側がコソボの難民を基地に収容することを歴史上初めて事前通告してきたのである。もちろん、何らの「相談」があったわけではなく、単なる通告にすぎなかったが、画期的な変化であった。しかし、このときには移送は行われなかった。そして、今回、アルカイダの「捕虜」の移送についても「事前通告」があった。保安要員を増員することも伝えられた。これにたいし、キューバ側は受け入れを表明し、マラリア対策など医療面での協力を申し出たことはマスコミ等で伝えられているとおりである。なお、アルカイダ兵士が基地から脱出した場合には基地に送還するとのことである。

9月11日とキューバ
 貿易センタービル事件の日、筆者はたまたまハバナに滞在していた。寄宿先の友人宅の2階で休んでいると、階下から「大変だ。早く来て」という叫び声がするので、階段を飛び降りていくと、テレビ画面にセンタービル攻撃の瞬間が映っていた。それから夜までテレビにかじりつくことになったが、夕方にフィデル・カストロ議長の演説が放送された。ちょうどその日は救急看護学校の開所式で話す予定になっていたのだが、「一日中テレビで伝えられていたので諸君も知っているように」と言って、早速、世界貿易センタービル事件問題に言及し、キューバの立場を明らかにした。
 このときにフィデル・カストロ議長が語ったのは、主に3点である。まず第1に、犠牲になった米国民に心からの哀悼を捧げるということである。米国はテロ国家である、しかし、政府と米国民とは異なる、援助が必要であればすぐにでも駆けつける、ともいっていた。第2に、キューバはテロには反対である、革命以来、キューバは絶えずテロにさらされ続け、人的にも非常に大きな犠牲をこうむってきた(革命後のテロの犠牲者は死者3478人、負傷者約4000人という数字があげられている)、テロの犠牲がどんなにつらいものか、よく知っているからである、ということである。第3に、このようなテロにたいしては戦争という手段では解決できない、ということであった。その日からテレビでは毎晩、ジャーナリストや学者など著名人を集め、この事件について情勢報告と討論が行われていた。議論の中心は戦争という手段の是非にあった。しかし、テロを封じ込めることはキューバに対する米国の「テロ」を封じることにもなるはずだ。

対米国関係−「かすかな」変化

 ブッシュ政権はフロリダ州を重要な選挙基盤としており、キューバにたいしては当然、強硬姿勢が予想される。しかし、昨年1年間の動きを見る限り、制裁を強化したいブッシュ政権と緩和を求める勢力の動きとが拮抗しあっているようにみえる。これには議会の勢力関係もからんでおり、とくに最強硬派といわれているジェシー・ヘルムズ上院議員が外交委員長をおりてからは緩和への動きがやや強まっている。たとえば、ブッシュ政権は昨年7月にはヘルムズ・バートン法第3項の適用凍結を継続することを決定している。これはキューバと取引する企業関係者にも制裁を課すというものだが、クリントン政権時代の96年以来、ずっと凍結されている。
 その中で実現したのがハリケーンを契機とする食糧輸出である。昨年11月初め50年来最大といわれるハリケーン・ミシェルがキューバを襲い、多大な被害を出したが、制裁を実施しているはずの米国が援助を申し出たのである。これにたいしキューバ政府は援助ではなく、食糧の輸出という形であれば受け入れると伝え、米国もこれを了承した。キューバ政府は「制裁緩和を意味するものではない」という声明を出しているが、米国が援助を申し出たことだけでも大きな変化である。
 クリントン政権末期の2000年7月には米国下院で食糧と医薬品を経済制裁から除外する決議が採択され、両国関係の改善かと期待された。しかし、実際には共和党を中心とする対キューバ強硬派と民主党を中心とする制裁緩和派との妥協の産物であり、共和党は輸出信用を与えない、バーター貿易を禁止するという条件を課すことに成功し、事実上、輸出は不可能となった。しかし、今回、ハリケーン被害の救援という限定的なものであれ、実現したことになる。1月27日にキューバを再訪したライアン・イリノイ州知事が「わが州の農産物がキューバに到着した」と喜びをあらわしているように、ヨーロッパ等のキューバ進出に焦りを感じている米国の経済界の圧力が勝ったことを示すものであろう。ライアン知事は共和党であり、共和党内部にもキューバ政策をめぐる意見の対立があることを示している。もっとも、対キューバ強硬派は共和党だけではなく、民主党内部にも存在する。
 昨年12月にはハバナ市でサンパウロ・フォーラム第5回会議が開かれているように、今、キューバではネオリベラリズム批判に大きな力が注がれている。グローバル化の名のもとに世界中に浸透しているネオリベラリズム体制こそテロの温床であり、「アフガン戦争」の原因だというわけである。ネオリベラリズムを拒否し、独自の体制を追及してきたキューバはようやく経済を回復軌道に乗せ、国民生活の向上には「あとは経済成長を待つのみ」という段階にまで到達した。市場原理を導入した社会主義体制というキューバの道が成功すれば、他に選択肢はないとしてネオリベラリズム体制をとることを余儀なくされている発展途上国にたいする影響は大きい。これもテロにたいする一つの闘いであるといえる。
第4回
 
「エルネスト・チェ・ゲバラ伝」
パコ・イグナシオ・タイボII著/近藤政子訳
上・下巻セット 9,870円(税込)+300円(送料)
海風書房発行
特典付 直接注文受け付け中! 詳しくは→こちら
「キューバの現在−あれこれ」へのご感想・ご意見をお寄せください。
Connect to info@casa-de-cuba.com
 
Back
 
copyright(C)Casa-de-Cuba. 2002 info@casa-de-cuba.com